宮下文書の中の日本や秦の祖先神はチャン族の祖先 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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中国大陸の原初神の三皇五帝は中国の神話として語られている。宮下文書によると伏蒙(伏義)、神農、炎帝、黄帝らが秦の始皇帝、神武天皇、徐福などのルーツとなっている(参考)。

日本人の男性遺伝子Y-DNA Dに着目するとチャン族と同族となるが、さらにチャン族の祖先の羌族は春秋戦国時代の秦や斉と同族であり、この羌族の由来を中国古代の歴史書から読み取ると、中国大陸の原初神の伏蒙(伏義)、炎帝、黄帝に結びつく。ただし、男性遺伝子Y-DNA Dの観点で、チャン族と漢民族とはつながりが無い。

すなわち、徐福らが書いたとされる宮下文書(富士文献)の中の秦や日本の神々と徐福らのルーツの系図は概略として間違っていなかったことになる。


雑談1

日本語の成り立ちはY-DNA Dを持つ山の民とY-DNA Cを持つ海の民の言葉の融合と考えられる。そう考えると環日本海あたりが日本語のルーツであり、太平洋沿岸から中国大陸の内陸に日本語が広がったことになる(参考)。そう考えると、原初神の伏蒙(伏義)が日本列島の蓬莱山から中国大陸に進出したとする宮下文書は、あながち近現代に捏造された大ボラな神話とは言えないことになる。


雑談2

環日本海から太平洋沿岸の海の民とのつながりを考慮すると、ウガヤフキアエズ王朝を記述するウエツフミなどの古史古伝も無視出来なくなる。またウエツフミに出てくるカタカナによく似た神代文字が日ユ同祖論などとも絡まって、例えばフェニキア人やユダヤ人などとの超古代からのユーラシア大陸の東西の民の交流を想像させられる。

また、下関の彦島にシュメール人のペトログリフと言うものがあるが、シュメール人の到来も荒唐無稽とは言えない。


参考

① チャン人、秦人は中華の源の一つ(人民中国、参考)

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唐代の詩人王之渙(688~742年)は、「羌笛何須怨楊柳、春風不度玉門関」(羌笛何ぞ須ゐん楊柳を怨むを、春風渡らず玉門関)と詠んでいる。本文で言う羌(チャン)人は、まさに羌笛を吹く人の先祖である。もちろん、2008年、大地震に襲われた阿壩チベット族チャン族自治州のチャン人の先祖でもある。

チャン族は、歴史の極めて長い山地民族であり、紛れもなく華夏族すなわち中華民族の重要な源のひとつであろう。『説文解字』の解釈では、「羌は、西戎の牧羊人で、人と羊からなる」とあり、羌の字は人と羊の組み合わせと説く。

チャン族は、長く移動する間に、2大系統に分かれた。1系統は東へ向かい、東部の先住民と融合し、漢民族文化を開く先駆けとなった。『帝王世紀』には「伏蒙は成紀に生まれる」とある。「伏蒙」は三皇(中国最古の三人の皇帝。ほかの2人は神農と黄帝)の1人目で、「成紀」は今日の甘粛省南部天水地区、古くは「方羌の地」とされる。

『史記・補三皇本紀』では、炎帝は「姜水で育つ」という。姜水は甘粛省定西市渭源県の方渭河、その支流の歧水で、今日では渭河という。渭河の源はすなわちチャン人の本拠地である。『国語・晋語四』の解釈では、「昔少典は有嬌氏を娶り、黄帝と炎帝を生んだ。黄帝は姫水で育ち、炎帝は姜水で育つ。育った場所を異にするため、黄帝を姫、炎帝を姜と呼ぶ」。つまり、黄帝と炎帝は兄弟で(一説には異母兄弟)、2人とも間違いなくチャン族部落の人である。これは、なぜ古字の「羌」と「姜」が同じ文字であるかを説明している。ここから今日我々がいう炎黄子孫は、実はチャン人の末裔であると分かる。

『史記・六国年表』には「禹は西羌に興る」とあり、また『孟子・離婁下』には「文王は歧周に生まれ、畢郢で没す、西夷の人である」とある。西夷は間違いなく西羌のことである。そこで歴史学者の翦伯賛氏は「炎帝の姓は姜……西戎チャン族の一系統で、西から遊牧して先に中部に入る」という。彼は秦人の源を論証して、秦は東遷したチャン人と中原の人の末裔であると説く。「秦の祖先は戎である」という言い方もここから来ている。


② 徐福らが書いたとされる宮下文書(富士文献)の中の秦や日本の神々と徐福らのルーツの系図(神奈川徐福研究会、参考)

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原初神の伏蒙(伏義)、炎帝神農、黄帝らが秦の始皇帝、神武天皇、徐福などのルーツとなっている。

また、この系図で新羅、百済、高麗(高句麗のこと)も同族となっていることに着目して欲しい。北畠親房の神皇正統記においても「昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり(神皇正統記、参考)」とある。


③ 三皇五帝(さんこうごてい、コトバンクより)

中国古代の伝説上の帝王。中国最古の王朝である夏(か)王朝の前に、三皇とそれに続く五帝の合計8人の聖王による治世が存在していたと伝えられているが、『史記』が三皇を伏羲(ふくぎ)、女(じょか)、神農(しんのう)、あるいは天皇、地皇、人皇とする両説を併載しているように、だれを三皇五帝とするかについてはさまざまな説がある。伏羲は易をつくり、女は人類を生み出し、神農は民に農業を教えたとされ、三皇の伝説には神話的色彩が強い。また司馬遷(しばせん)は、五帝に関する記述を『史記』の冒頭に置き、黄帝(こうてい)(せんぎょく)、帝(こく)、帝堯(ぎょう)、帝舜(しゅん)の5人の帝について述べているが、それに先行するとされた三皇については疑いを抱いて取り上げていない。

三皇の記述が『史記』に付け加えられるのは唐代になってからである。このように、中国の古代史は時代が古いところほどあとから積み上げられたものであり、その成立はかえって新しいとされている。これを加上説とよぶが、この考え方に従うと、三皇五帝の時代は中国の古代に実在せず、観念的にあとから夏王朝の前に接ぎ木されたものであることがわかる。三皇五帝がだれであるのか一定していないのも、そのためであると考えられている。[桐本東太]

注: 夏王朝は華夏民族(漢民族)の王朝であり、漢民族の歴史書である史記に三皇五帝が書かれていなくても、不思議では無い。唐は非漢民族の鮮卑の国であり、羌族や秦の末裔達が唐の科挙に合格した文官になっており、三皇五帝を追加したと考えられる。


④ 五帝(ピクシブ百科事典、参考)
 
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⑤ 秦、新羅、百済、高句麗は原日本語を喋った同族である(参考)。春秋戦国時代の秦、羌族、斉なども同族である(参考)。


⑥ 漢民族は3000年前に中原に侵入してきた(参考)もので、それまでの東アジアは秦の始皇帝の祖先のものだった。


⑦ 頑張れチャン族(参考)、、、四川大地震などで被害を受け、復興中。


⑧ 日本語の起源