武蔵野の寺院 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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江戸の町にあった由緒ある寺院が、武蔵野の中に見つかる。実は、関東大震災や戦災などで焼け出されたものであった。

ここでは、著者の知る豊島園近くの寺院のほか、府中市、小平市の寺院を紹介する。


参考

① 浄土宗 田島山十一ヶ寺(参考)、または練馬十一ヶ寺

田島山十一ヶ寺は、関東大震災で被災した田島山誓願寺の塔頭が順次当地へ移転しました。

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十一ヶ寺の正門(豊島園駅側)、練馬区練馬4丁目25

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正門の右

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豊島園駅の東側(東方向を上に90度回転した)

本坊誓願寺の開山東誉上人は、将軍家康より神田豊島町(現在の須田町柳原付近旧お玉ヶ池畔:繁栄お玉稲荷大明神地)に1万坪の土地を賜り、相州小田原より殿堂を移して建立した。

この時塔頭6院[仮宿院得生院、徳寿院(多磨霊園に移転)、九品院、西慶院(九品院に合併)、快楽院]を設けた。

下って明暦3年(1657)4月江戸大火(振袖火事)に遇い一山一朝にして灰燼に帰し、ふたたび徳川家の命により浅草田島町の地に移転、本坊塔頭を建立し、新たに本性院宗周院、長安院、実昭院、長寿院の建立を見た。

この間徳川家の外護、特に桂昌院のための菩提として御朱印300石(神奈川県生麦田島村)および別院屋敷として麻布田島町(現在の北里研究所の地)等に土地を賜り、また代々本住職の牌所(位牌所または隠居所の意)として仁寿院称名院等が塔頭として創立され、さらに常念仏道場として迎接院の創立を見るに至った。

享保年間(1716-36)に徳川家十人衆(当時の御用商人)並びに土井家、本多家、三浦家、刈谷家が各塔頭を宿坊として外護の任に当った。

各宿坊はそれぞれ有力な外護を持ったが、いずれも本坊の支配下にあって、各院住職は本坊に輪番出勤の制度であった。

明治維新の改革により、御朱印地は国に没収されるに至って、本坊の維持が困難となり、各院は本坊より別れて各々1ヶ寺として独立し従来の宿坊制度の各取次檀家は各院所属の檀家となった。

大正12年の大震災により全院が焼失したので一山総集会を開催し郊外移転復興を決定、各寺住職より委員を選出して移転事務所を開設、協力して昭和2年(1927)より先ず墓地を練馬の北谷戸山(現在地)に移転し、ついで各寺の堂宇を同地に起工、竣工の上浅草田島町仮屋より移転して現在に至った。(資料昭和11年刊行「得生院縁起」による)(元本坊の田島山誓願寺は多磨霊園正門近くに移転。今は十一ヶ寺との関係はない。)

寺院は、入口中央道路の右側より快楽院宗周院仮宿院受用院称名院林宗院、左側に仁寿院迎接院本性院得生院九品院と並び、ほとんどの寺院が書院形式をなっている。

東奥にそれぞれの寺院の墓地があり、書道家、篆刻の名人として有名な池永道雲や本草学者として名高い小野蘭山の墓をはじめ、札差として権勢を誇った青地善春一族、あるいは歌舞伎の名優初代沢村宗十郎らの墓がある。(「練馬の寺院」より)


② 浄土宗 田島山誓願寺(参考)

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府中市紅葉丘1-14-4、多磨霊園の南

浄土宗系単立寺院の誓願寺は、田島山と号します。誓願寺は、相州小田原誓願寺開山見誉善悦の弟子で、相州小田原誓願寺住職の住職を勤めていた東誉魯水和尚を、徳川家康が請て文禄元年(1592)に神田白銀町に創建、神田須田町への移転(慶長元年)を経て、明暦3年の大火により浅草へ移転したといいます。徳川家康、家忠の崇敬を受けた他、綱吉、桂昌院の帰依を受け、寺領400石の御朱印を拝領、別院安養寺(足立区法受寺に合併)の他数多くの塔頭(現練馬十一ヶ寺)を擁していました。関東大震災での被災を機に、当地へ移転しています。


③ 日蓮宗 中将山大仙寺(参考)

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小平市上水南町2丁目11−20、情報通信研究機構の西側

この寺は、文禄4年(1595年)に正善院日堂上人が江戸八丁堀(現中央区)に堂宇を構え、布教した事に始まります。それから約50年後の正保元年(1644年)には、浅草八軒寺町(現台東区寿)に寺領を移し、長くこの地に寺院として健立されておりました。

ところが昭和20年(1945)3月10日、東京大空襲に遭い建物を焼失。昭和23年(1948)5月に現在の地東京都小平市に移転、再建いたしました。

現本堂裏の墓地に江戸末期の有名な浮世絵師、歌川国芳の墓がある。