太陽が真東から昇り真西に沈む日であるお彼岸とは、あの世からご先祖様の霊をお招きすると言う仏教にまつわる概念と理解していたが、太陽を拝む太陽信仰と西方極楽浄土を拝む仏教信仰の両方の意味があった。
仏教が中国に到来した1世紀頃から後漢の洛陽や長安(現在の西安)は信仰の中心となったが、元々、長安辺りは紀元前206年に滅亡した秦の始皇帝の都であった。この長安の真東にある沖ノ島から厳島神社、高野山、伊勢神宮などから真西を拝むことは、まさに長安が彼岸であり、西方極楽浄土であった。
参考
秋のお彼岸です。お彼岸といえば、ということで、今回も民俗学者の日野西眞定先生のお話から、お彼岸の意味をお伝えしたいと思います。
お彼岸というのは、春分の日(3月21日)や秋分の日(9月23日)のそれぞれの前後数日間の時季をさします。
「彼岸」という言葉は、「此岸」という言葉と対で使われます。此岸というのは私たちの住む世界のこと、彼岸というのはその反対に、仏様の住む世界、悟りの世界ということです。彼岸に到る、「到彼岸」はサンスクリット語で「パーラミター」、漢字に音写すると「波羅蜜多」ということになります。
「お盆」というと、まだ少し宗教的輪郭がぼやけた感じがしますが、「お彼岸」となると、こんな仏教的な言葉がついているからには、まず間違いなく仏教伝来以降の習慣のような気がします。
しかし、日野西先生によるとこれも、もともとは日本の民族信仰ではないか、漢字表記も「日願」ではないか、というのです。春分、秋分の日には太陽が真東から昇って真西に沈みます。この太陽にお祈りをする、一種の太陽信仰だというわけです。その名残か、今でも長野では「日天願」という言葉が残っているといいます。
この「日願」に仏教的意味合いを重ねたのが今の「彼岸」です。たとえば、彼岸の時季は昼夜が同時間となることから、「中道」に通じるところがあります。さらに太陽が真西に沈むということは、阿弥陀如来の西方浄土をまっすぐに拝めるわけです。
阿弥陀如来をまっすぐに拝み、太陽に次の豊作を祈る。一石二鳥の「ひがん」なのです。
慈恩寺と大雁塔
2009年4月9日(木)
[コメント]
私が巡ったシルクロード2万キロの旅を、写真とエッセイで紹介します。
私が巡ったシルクロード2万キロの旅を、写真とエッセイで紹介します。
既に西安の部分は、34回に渡って紹介していますので、総集編の感覚でご覧ください。初めての訪問の人や久しぶりの人は、「はるかなり長安」や「麗しき ペルシア」もご覧ください。
仏教の伝来 ~鳩摩羅什と玄奘三蔵~
この古都西安(長安)で、膨大な経典をを漢訳した二人の僧侶がいた。鳩摩羅什(くまらじゅう)と玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)。この二人は言葉と精神を永遠のものとし、いまだに私の魂を揺さぶる。今日はその二人の僧ゆかりの古刹を訪れて、偉業に打たれ、そして思ってみたい。
唐の時代、長安の都はまさに国際都市だった。版図ははるか西アジアにまで広がり、城内を東西の文物が行き交っていた。その長安を目指して、わが国からも多くの有能な人材が渡った。その中に、若き留学僧空海の姿があった。なぜ空海が命を懸けてまで唐の都長安へやってきたのか?
それは仏教の源流に迫りたいの思いからであった。約1200年の時を隔てて、西安の街にその足跡を辿ってみたい。阿倍仲麻呂も私の心の奥に子どもの頃から住み着いている。
こうした先人たちの思いをいくらかでも感じ取りたい……そんな高まる気持でペダルを漕ぎはじめた。
「質素だった鳩摩羅什を草堂寺で偲ぶ」
名前を知らない人も少なくないと思うが、我々に最もよく唱えられている「妙法蓮華経天」が鳩摩羅什によって訳されたと聞けば、とたんに親しみが湧くのではないだろうか。西域の亀茲国生まれの彼の宗教家としての名声は西域ばかりでなく、中国にまで及び、彼を手に入れようと、戦争まで起こったくらいである。そんな彼だが、戦争に負けてとらえられ、戒律に反して、無理に女性と交わらせられる。私はそんな彼に人間味を感じていた。彼は玄奘三蔵より以前に多くの経典を訳している。
詳しくは、記事の最後の鳩摩羅什の紹介を見てください。キジル石窟で撮影した鳩摩羅什の写真を紹介します。
そんなことから、この寺は余り有名ではないが、どうしてもお参りしたかったのだ。西安市内から西南へ50キロも自転車を漕ぐのはちょっと大変そうだが、四国遍路で1日40キロ以上も歩いた経験が何度かあるので、私としては大した距離ではない。バスの便は悪いし、自転車を5日間借りているので、タクシーではもったいない。
草堂寺は華美なお寺ではなく、いわば田舎風のひっそりしたたたずまいだった。鳩摩羅什の名声にしては質素だった。おおげさなものはなにもなかった。
草堂寺の山門
[大雁塔と玄奘三蔵院]
朝早くホテルを出て、大雁塔前の公園に建っている玄奘三蔵像と、朝日を浴びている大雁塔をしげしげと眺めた。実は、日本画壇の重鎮、平山郁夫画伯が「明けゆく長安大雁塔」という題で、薬師寺に大きな壁画を描いている。この光景を実際にこの目で見たかったのである。朝食も取らずに待ち構えていた。
幸い絶好の好天。まさに、“やったぜ”といった感じ小躍りしていた。何枚も撮った中でこれぞと思うものはこれ――平山さんの絵のイメージに近いものが撮れた。
平山郁夫『薬師寺玄奘三蔵院大壁画』より
1号壁「明けの長安大雁塔」
近くでまじまじと像を見つめていると、玄奘三蔵への想いが湧き上がってきた。
玄奘三蔵は、西暦629年インドに向かう旅に出た。ナーランダ大学での修業を得て、インド各地をめぐり、西安に帰り着いたのは645年である。
彼は帰国後、持ち帰った74部、1338巻もの経典の翻訳のため、その後の人生に心血を注いだ。
国禁を犯して、灼熱の砂漠を通り、極寒の中険しいパミール高原を越えてインドに辿り着き、そこで猛烈な勉学と修行を重ね、帰国後はほぼ死ぬまで経典の翻訳に打ち込んだ――こんなストイックな生き方は、到底できるものではない。この人物を表現できる適当な言葉が、私には見つからない。
玄奘三蔵の旅をモデルにした、孫悟空が活躍する小説「西遊記」は余りにも有名だが、子どもの頃に描いていた、孫悟空、猪八戒、沙悟浄を引き連れて冒険旅行を繰り広げる「三蔵法師」と玄奘三蔵の実態が余りにもかけ離れていることを若かりし頃知った時がくぜんとしたものだ。
私をシルクロードに導いたのは、マルコ・ポーロであったが、それを膨らませてくれたのが、平山郁夫画伯であり、玄奘三蔵である。
西安では、やはり大雁塔への思い入れが一番深い。大雁塔は見れば見るほど気品をたたえてそびえ立っている。これから伸びていこうとする、はつらつとした気概にあふれている。この大雁塔が西安全体の雰囲気を醸し出しているように思う。
玄奘三蔵については、以前公開した下記の記事もあわせてご覧ください。
「はるかなり長安'9,10」 大雁塔からの眺め ~奘三蔵と大雁塔1、2~
URL: http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/23842658.html
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/23891525.html
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurai4391/23891525.html
[興教寺]
もう一つの玄奘三蔵ゆかりの寺の興教寺は、西安から焼く20キロ東南にある。山の斜面に立つ興教寺は、玄奘の遺骨が納められているところだ。夕方訪れたこともあり、黄昏の静かな境内である。立ち去りがたくていつまでも唐を見上げていると、工事の男が何かいい多層に見ていた。黙っていると1300年前の同じことを考えているような気にもなるが、気持を伝え合おうとしても、そこには言葉の壁が立ちふさがって
いた。
興教寺の周辺は山林に囲まれ、野鳥のさえずりが絶えない。
西安市から東南へ焼く20キロにある興教寺。
境内に建つ玄奘舎利塔。高さは23メートル。
[杜泉流鳩摩羅物語]
鳩摩羅什(344~413年)(以下羅什と略す)は、クマーラジーヴァといい、意味から訳せば、童壽(どうじゅ)となる。父のクマーラヤーナ(鳩摩羅炎)はインドの宰相であったが、出家して西域の亀茲国(きじこく)にやって来た。その地で国王に推されて国師となりなり、王の妹ジーヴァを娶って一子をなした。子の名は、父母の名を合わせてクマーラジーヴァとした。生まれたのは亀茲国の首都クチャ(庫車)である。7歳で出家して、母とともに北インドに留学し、小乗学派を学び、カシュガルでは往時スーリヤソーマ(須利耶蘇摩・しゅりやそま)について大乗空義(だいじょうくうぎ)を極め、梵本(サンスクリット語)の法華経を授けられたという。
故国亀茲に帰ると国王の帰依を受け、大乗教義を講説した。その名声は西域諸国ばかりでなく、中国にも及んだ。戦争を起こして羅什を手に入れようとする王まで現れたのだから、その名声は限りもない。384年、前秦王・符堅(ふけん)は将軍呂光(りょこう)をつかわして亀茲国を攻めさせ、羅什を自分の国に迎え入れようとした。この戦で亀茲国王白純は戦死し、鳩摩羅什はとらえられた。その時、呂光は亀茲王の娘を無理やり羅什に娶らせようとしたいう。彼の種をこの世に残そうとしたのである。
呂光は羅什を連れて涼州(甘粛省武威)まで戻った時、前秦が滅んで符堅が殺されたことを知る。
呂光はそのまま国を起こして後涼王となり、羅什は涼州に18年間とどまることになる。その時に、本格的に漢語を学んだといわれている。
401年、後秦王姚興(ようこう)は後涼を討ち、羅什を長安に迎えて国師とした。羅什は長安の西明閣と逍遥閣にとどまり、本格的に仏典翻訳と講説をした。訳した経典は、一般に名前のよく知られる『法華経』『阿弥陀経』『中論』など多岐にわたり、いろいろな説があるが、その数35部297巻とされている。
羅什の訳は流麗であり、漢語の持つリズムをよく生かしている、と言われている。羅什訳の経典は中国で熱狂的に迎えられ、日本や朝鮮半島に伝わり、今日でもつかわれている。羅什ほど後世の仏教に深い影響をあたえた人はいないだろう。一般に余り知られていないのが不思議である。
ひとりの僧を求めるため戦争まで起こして例は、史上ほかにあるだろうか? 後秦王姚興は羅中の血統が絶えることを恐れ、長安の妓女10人をまわりにはべらせたという。女性と交わらないという戒律受けた僧の身では、姚興の待遇は羅什には苦痛であったに違いない。姚興の望みどおりに羅什が子孫を残したかどうかは、後世の歴史書は伝えていない。羅什は破戒僧の汚名まで着せられ、自身も罪の意識にさいなまれ、一生悩みぬいたことだろう。羅什が玄奘三蔵とくらべて後世に名前や人となりが余り伝わらなかったのは、女性に関することを口にすることがはばかられたからではないだろうか。4134月13日、羅什は長安の長安大寺でぼっした。享年70歳であったという。
③ 仏教伝来(参考)
後漢の明帝は、光を放つ金人が西方より来て、殿庭に降りる夢を見た。西方に仏教があるのを知った明帝は、蔡惜・秦景ら十八人を西域に遣わし仏教を求めさせた。かれらは途中で、白馬に経典や仏像を積んで東に向かう迦葉摩騰・竺法蘭に出会い、二人を連れて洛陽に帰った。明帝は洛陽の郊外に白馬寺を建立して二人を住まわせた。ここで訳されたのが「四十二章経」であり、中国で訳された最初の経典であるとされている。
文献上の仏教初伝の記録
・「魏略」
漢の哀帝の元寿元年(紀元2年)、大月氏国の使者伊存(いそん)が博士弟子景盧(けいろ)に仏教を口授した、とある。
・「後漢書」
1世紀後半に仏教信者楚王英が黄帝、老子と一緒に仏をまつった、とある。
明帝の異母弟・楚王英が仏像をまつって不老長寿を祈ったというのが事実とすれば、1世紀の中頃には仏教が帝都にまで知られていたことになる。実際には、中央アジアからの交易商人たちの往来で、これよりも遙かに早く中国に仏教が伝わったと思われる。
④ 古代中国の首都、長安
⑤ 仏教伝来(wikiより)
⑥ 長安は北緯34度14分、沖ノ島、高野山、伊勢神宮と同緯度にあった(参考)
⑦ 秦の始皇帝の阿房宮など長安の近くにあった(参考)