今伊勢内宮外宮、広島県福山市 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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元伊勢の一つ吉備国の名方浜宮の比定地の一つとして最西端に、広島県福山市に「今伊勢内宮外宮」がある(参考)。神社そのものは比較的新しいが、この地に豊鍬入姫命が4年間滞在したとか。

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1 今伊勢内宮外宮、2 伊勢神宮、3 沖ノ島

この地をグーグルアースで見ると大三島の大山祇神社(参考)に近く、沖ノ島と現在の伊勢神宮の位置の中間、東経133度24分付近にあった。

すなわち、現在の伊勢神宮の社地を決定するに際し、沖ノ島と伊勢神宮の中間地点の測位が必要であったのであろ。例えば、四神相応思想の観点では北に出雲の熊野大社、南に石鎚神社などが有ることに気づく。


参考

① 経度

1 今伊勢内宮外宮 東経133度16分34秒
2 伊勢神宮 東経136度43分32秒
3 沖ノ島 東経130度6分11秒


② 今伊勢内宮外宮(参考)

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今伊勢内宮外宮(いまいせないぐうげぐう、今伊勢内宮・外宮)は、広島県福山市にある神社。近代社格は県社。境内で、内宮と外宮に分かれている。読みは境内案内による。

『倭姫命世記』にあるアマテラスを奉斎したトヨスキイリビメが4年間滞在した「名方浜宮」の候補地の一つであり、元伊勢の一つ。伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮)の元宮の可能性がある。広島県内唯一の元伊勢伝承地。

当宮では、「名方浜宮」の旧跡に創建されたものであり、御神体の鏡にちなみ、鏡山とも呼ばれ、神村の地名もそのためとしている。御祭神は、天照皇大神(アマテラス)、豊受皇大神(トヨウケビメノカミ)。境内社に内宮の別宮などに準じた、荒祭宮、伊蘇宮、伊雑宮、風宮、多賀神社、恵美須神社、天神社などがある。

境内案内では、『今伊勢神名注縁起』によると、応永33年(1426年)、平朝臣太夫末治が伊勢に参宮し、七夜参籠すると霊夢があり、鳥居に五寸の青目石があるのを国へ持ち帰るべしとお告げがあった。

泉州境水庄に帰り、同35年になって西国へ供奉すべしとの霊夢があった。そこで摂津、播磨、備前、備中へ至るも何のしるしもなかったが、備後国沼陵郡神村庄の鏡山に至ると一足も進むことができなくなり、神慮にかなう地として石を安置した。

すると人々群集し、野気沼掃部守が社地を寄進し、同年2月に外宮を造り、正長2年(1429年)4月に内宮を造営したという。文安2年(1445年)、神主荒木田平末次が願主となって領主杉原平朝臣政光が社殿を再興している。

文明8年(1476年、なお文明9年とする記もある)8月13日、火災に罹り、同10年11月に再建御遷宮が行われている。その後、明応7年(1498年)、永正15年(1518年)、永禄4年(1561年)に社殿の再興修復があった。

江戸時代には福山藩主水野氏の崇敬篤く、元和8年(1622年)に内宮再興、寛永11年(1634年)に外宮の修復が行われた。今の社殿は大正8年(1919年)に造営された。昭和6年(1931年)、県社に列格。

境内には七本の杉があり、三杉・四杉と称している。豊臣秀吉が九州下向の時にこの地で餅菓子を食し、その時の杉楊枝七本を「みすき世すき」と唱えて挿し置いたものが芽を出したものという伝承がある。

なお、元伊勢「名方浜宮」の伝承地は他に、岡山県に伊勢神社(岡山市北区番町)、内宮(岡山市南区浜野)、穴門山神社(倉敷市真備町妹)、穴門山神社(高梁市川上町高山市)、神明神社(総社市福井字神明)、和歌山県に伊勢部柿本神社(海南市日方)、国主神社(現在田殿丹生神社に合祀、有田郡有田川町長田)がある。



③ 名方浜宮の比定地(参考)

名方浜宮の最後の比定地は、元伊勢伝承の比定地最西端と思える広島県福山市神村町鏡山の今伊勢内宮外宮である。この神社はかつての備後国のエリアにある。旧県社で古くは伊勢神明宮とも称された。鳥居が建ち以前は参道のあった所を、車が多く行き交う国道二号線とそれに沿ったJR山陽本線が並んで横切っている。鉄道の踏み切りを渡ると、左右に「忠誠尊皇室」「孝敬事天神」と彫刻された二本の石柱が立っている。その先に鳥居が見え、背後の山の鏡山中腹まで急な勾配の石段が続いている。鳥居を過ぎすぐ左側には豊受皇大神を祀る外宮が、右側には、英霊の御霊を祀る護国神社がある。手摺りを備えた石段をのぼって行くと台地が開け、天照皇大神が鎮座する内宮の社殿がある。境内には荒祭宮・伊蘇宮・伊雑宮・恵美須神社・風宮といった伊勢の神宮の別宮に倣ったような小社が奉祀されている。内宮の社殿左手の細い坂道を辿っていくと多賀神社が祀られていた。

この神社は、十五世紀中頃に泉州境の神主が神示を受け、伊勢より天照大神を遷座させたという伝承がある。室町時代よりこの地方の名社として知られ、雨乞いや病気平癒などの祈願で藩主からも崇尊されたという。しかし社記に豊鍬入姫命や倭姫命にまつわる記事は無く、地方の書誌に此の地を、“吉備名方濱宮の霊地なり”とあるのみで、元伊勢伝承の根拠の希薄さも指摘されている。社名も出来過ぎといった識者もいる。