住吉神社について、特に大阪と福岡 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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住吉大社(大阪)、住吉神社(福岡)、住吉神社(下関)について、729年から749年あたりまでに造営されと思われ、順番としては住吉神社(下関)、住吉神社(福岡)、住吉大社となろう!

注目して欲しいのは、大阪湾の奥に古代の河内湖(草香江)と住吉大社、博多湾の奥に古代の草香江と住吉神社があることです。

さらに住吉神社(福岡)の隣りにある櫛田神社は伊勢国松坂の櫛田神社を勧進したもので、近畿あたりから北九州への人の移動が浮かび上がる。

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草香江(河内湖)と住吉大社(上町台地の付け根、住吉津のあたり)

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草香江(博多湾の右奥)と住吉神社(中央、冷泉津の上の半島)


参考

住吉神社福岡市博多区住吉

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住吉三神の和魂をまつる

創建年代は不詳であるが、神社の縁起では、日本神話の神産の段、黄泉から帰還した伊弉諾尊が禊祓を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」がこの博多の住吉の地であるとし、その禊祓で住吉三神などが生まれたので当社が住吉神社の始源であるとしている。

国史では、『続日本紀』の天平9年(737年)4月1日条に筑紫住吉などに使いを遣わしたとあるのが初出である。古代の博多湾は住吉神社の前まで海が入り込んでおり、かつての社殿は海に向かって建てられていた。

『延喜式神名帳』では「筑前国那珂郡 住吉神社三座 並名神大」と記載され、名神大社に列している(wikiより)。

772年、太宰府管下の城郭築城を監督する営大津城監が廃止される(続日本紀宝亀三年十一月二十五日の条、参考)までの、太宰府建設の一環として住吉神社も造営されたのであろう。


住吉神社下関市一の宮住吉一丁目11-1

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住吉三神の荒魂をまつる

『日本書紀』神功皇后紀によれば、三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に住吉三神(住吉大神)が信託してその渡海を守護し、帰途、大神が「我が荒魂を穴門(長門)の山田邑に祀れ」と再び神託があり、穴門直践立(あなとのあたえほんだち)を神主の長として、その場所に祠を建てたのを起源とする(wikiより、参考)。

「住吉開基造営等之覚書」によると、応神天皇、武内宿禰、神功皇后は、聖務天皇の神亀年中(724年から729年)とある(参考)。


③ 住吉大社、大阪市住吉区住吉2丁目9-89

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住吉三神の和魂をまつる

仲哀天皇9年(西暦200年)、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道)に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田裳見宿禰が、住吉三神を祀ったのに始まる。その後、神功皇后も祭られる。応神天皇の頃からの大社の歴代宮司の津守氏は、田裳見宿禰の子の津守豊吾団(つもりのとよあだ、つもりのとよのごだん)を祖とする。

当社は古代大和王権の外交・航海に関連した神社で、遣隋使・遣唐使の守護神であり、津守氏は遣唐神主として遣唐使船に乗船した。遣隋使・遣唐使は、大社南部の細江川(通称 細井川。古代の住吉の細江)にあった仁徳天皇が開いたとされる住吉津(「墨江ノ津」「住之江津」すみのえのつ)から出発する。住吉津は、上代(奈良時代・平安時代初期)は、シルクロード につながる主な国際港でもあった(wikiより)。

大阪市の住吉大社の住吉社造営記事の初見(興福寺略年代記)は天平勝宝元年(749年)(参考)。


④ この「住吉」は、スミヨシと読みますが、古くは「スミノエ」と読みます。スミノエの「エ」とは、今でも関西圏では、良い事を「ええ」(良い)というのと同じで、神さまが「住むのに良い」という意味です。神さまの御心にかなう土地ということで住吉といいます(参考)。




⑥ 「クサカ」はエミシ語で船着き場を表している(進藤治氏)という。日本書紀には「草香邑青雲白肩之津」という表現。神武の「孔舎衙坂の戦い」、「日下の直越え道」 古事記」雄略記(418~479)の条に、「日下江の入り江の蓮 花蓮 身の盛り人 羨しきろかも」とある。「クサカ」に日下を当てたのは饒速日尊が天磐船から虚空(そら)見つヤマト国を見下ろしたことからヒノモトとも読める「日下」をあてたと考えられる。孔舎衙は音韻から当てたのかどうか不明(参考)。

東大阪市の北東、生駒山の山麓に、日下町・草香山の地名が残っており(岩波大系本注による)、『日本書紀』神武即位前紀戊午年3月の条に出てくる河内国の草香邑と考えられます。この「くさか」は、(1)枕詞の「日の下のクサカ(草が香る)」から、(2)「カ(日)・サガ(下る)」の転とする説があります(参考)。


⑦ 櫛田神社、福岡市博多区上川端町1-41

天平宝字元年(757年)、伊勢の松阪にあった櫛田神社を勧請したのに始まる。






10 旧三輪町の大己貴神社は奈良県桜井市三輪町の大神神社から来た(参考)