面会交流高葛藤事案の「紛争の実質」~渡辺義弘弁護士論文(3) | 金沢の弁護士が離婚・女と男と子どもについてあれこれ話すこと

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石川県金沢市在住・ごくごく普通のマチ弁(街の弁護士)が,日々の仕事の中で離婚,女と男と子どもにまつわるいろんなことを書き綴っていきます。お役立ちの法律情報はもちろんのこと,私自身の趣味に思いっきり入り込んだ記事もつらつらと書いていきます。

1.このシリーズのこれまでの記事

 

(1) 「非監護親の『寄る辺のない孤立感』と監護親の面会交流義務の『感情労働』性」(渡辺義弘)

(2)面会交流~紛争の泥沼化,高葛藤事案の背景事情~渡辺義弘弁護士論文(2)

 

2.

 前回は,渡辺弁護士論文の「第1 はじめに」を紹介しました。

 この記事では,「第2 紛争の実質と原則的実施論の出現」の章の「1 なぜ紛争が生ずるのか」を紹介します。

 そして,しばらく,その項に密着して考えていこうかなと思っています。

 

3.

 渡辺弁護士論文は,「1 なぜ紛争が生ずるのか」の冒頭で,ズバっと以下のように提示します。

 

★★引用開始★★

 

 紛争自体は「子の最善の利益」が争点となる。しかし,筆者の実務的体験では,まさに紛争の実質は,親相互の自らの利益(多くは精神的苦痛を軽減する利益)の葛藤にある。

 

★★引用終了★★

 

 この指摘はとても重要です。

 

4.

 まず,面会交流で紛争状態になり高葛藤となるのはどういう状況かを一つ一つ確認していこうと思います。

 

(1)

 私は,以前,

実体的な面会交流請求権なるものはないと考える根拠(1) 原則的実施論批判(3)

という記事を書きましたが,その記事の中で,いわゆる「面会交流権」なるものについて,次のような視点を提示しました。

 要約すると以下です。

 

 いわゆる面会交流権について諸説の対立があるが,議論が拡散しないようにするため,次のように問題設定する。

 非監護親(別居親)が,監護親(同居親)に対して,監護親が養育監護する子どもと非監護親との面会交流実施への協力を請求できる法的な権利があるか。

 監護親(同居親)は,非監護親(別居親)に対して,監護親が養育監護する子どもと非監護親との面会交流実施に協力すべき法的義務があるか。

 

②上記①AとBは表裏一体である。「法的な権利がある」ということは,相手(義務者)の意思に反してでも,国家による強制を用いての権利を実現できるということである。

 

 細かいことを言い出すと国家による強制執行が認められなくても,それを権利といっていいものがあるだろとかいろいろあります。

 しかし,原理原則的に「権利」「義務」を突き詰めると,上記のように言えますし,この私の記事では,国家強制できる権利としての面会交流権の存否を問題にしていますので,上記のように整理します。

 

(2)

 上記の整理のポイントは,「権利」として議論する以上は,①誰の(権利者),②誰に対する(義務者),③なにをしろ(あるいはするな)と要求するものか(権利内容)を明確にして論じましょうということです。

 私は,上記3点を曖昧にしたままであれこれ言っても,議論が拡散し,共通の土俵のないままに混乱していくだけだと考えます。

 

 そして,いわゆる面会交流の高葛藤事案について実務的に考えていく際には,さらに次の二つに分類して整理するのが有益と考えます。当たり前のことを一つ一つ確認していっております。

 

その1

 ①非監護親(権利者)が,②監護親(義務者)に対し,③非監護親が子と面会交流を実施するために具体的な協力をしろと要求する(作為を要求する)。

 

その2

 ①非看護親(権利者)が,②監護親(義務者)に対し,③非監護親が子と面会交流を実施することについて,その妨げとなるような行為をするなと要求する(不作為を要求する)。

 

(3)

 個々のケースは多様ですので,例外もあるかもしれませんが,大雑把には,上記(2)のその1とその2は,以下のように言えると思います。

 

上記(2)のその1

 子が幼い時期(乳幼児から中学生くらいまで?)で問題になる。

 

上記(2)のその2

 子が大きくなった後(中学生以降?)で,問題になる。

 

(4)

まず,(2)のその2について。極めて当たり前のことを書いていきますね。一つ一つ確認していこうと思いますので。

 

 その事案における子の特性もありますし,非監護親の特性もありますので,一概には言えませんが,子が大きくなり,自分の行動を自分で決める力が備わってきますと,子自身が離れてくらす親と会うか会わないか,いつ,どこで,どういう方法で会うのかを,離れてくらす親と打ち合わせて決めていくことができるようになります。

 それは,子からすると,自分の24時間をどう使うか,どういう人間関係を形作っていくかということですから,基本的に,子自身が相手と話し合って調整していけばいいということになります。

 大きくなった子に対し,その子と会いたいと思う者が,他者が国家権力を使って,その子に対し,強制するなんてことはできません。また,その子を監護する親に対し,子への影響力を行使して,その子が自分と会うようにしろと要求し,それを国家権力を使って強制しようというのも無理難題というものです。監護親に無理を強いるものです。

 ですから,子が大きくなると,①監護親が②非監護親に対し,③面会交流実施の積極的な作為を要求するという意味での面会交流権なるものを考えるのは非現実的になってきます。

 問題になるとすれば,子と非監護親が連絡を取り合って面会交流を実施している中で,監護親が,それを不適当と考えて,子に対し,外出を禁じるとか,電話を禁じるとかいう場面になるでしょう。

 子を養育監護する監護親としては,子の自主性を尊重するとしても,他方で,社会的に非常識な面会交流がなされていると考えるときは,監護の責務として,その面会交流に介入して,あるべき姿へと修正していくことになります。

 分かりやすくいうと,子が友人と深夜徘徊を繰り返したら,監護親としては注意するじゃないですか。それをしないで深夜徘徊を野放しにしたら,それは監護の放棄と評価されるでしょう。それと同じことです。

 そして,監護親が面会交流についてそういう介入をし,非監護親が,それはおかしいと言い出したとき,監護親と非監護親との間で,その監護親の介入が,適切な監護なのか,不適切な監護(面会交流の妨害)なのかが争われることになります。

 ですから,その2の場合は,特定の介入行為に対して,それをするなという要求(不作為請求)が妥当なのかどうかが問題になるわけです。そして,権利という以上は,国家権力による不作為強制できるかということが問題になります。具体的には,次のようになっていくでしょう。実際に可能かどうかはなんとも言えません。いろんなハードルがありそうで・・・。

①家庭裁判所が,監護親に対し,ある特定の行為をしないように命じる審判決定を出し,それが確定する。これにより,非監護親が監護親に対し,特定の行為をするなと要求できる具体的権利が発生する。

②それにも関わらず,監護親がその特定の行為をし続けた場合,非監護親は,地方裁判所に対し,強制執行(間接強制)の申立てをする。

③上記②の間接強制が認められれば,監護親は,違反行為に対し,非監護親に違約金を払う義務が生じる。これにより,間接的に,監護親の不作為を実現していく。

 

・・・・・あまり実務的に問題にならないケースについてあれこれ書いててもなぁ・・・・・

って気がしてきましたが・・・・・

一つ一つ確認です。

 

(5)

 次に,いよいよ(2)のその1です。

 子が幼いと,面会交流の実施には,その子を現実に養育監護する監護親の協力が不可欠になります。当たり前のことを指摘しています。

 

①子に面会交流について伝える。

②子の予定に関する日時調整をする(これは,非監護親との調整だけでなく,子の生活に関わる他者との調整も含む。)

③子の当日の健康に留意する

④子を待ち合わせ場所に連れて行く

⑤子を再び引き取る

⑥子が発熱したりして変更の必要が出てきたら変更について非監護親と調整する

 

 まあ,細かく,列挙したらもっと出てくるかもしれませんね。

 

 面会交流が円滑に進むには,こういう監護親の具体的な協力が極めて重要だということは,当たり前のことですけれど,とても大事なことですので,きちんと確認しておきたいと思います。

 

そして,ここで,渡辺弁護士論文を引用します。

 

★★引用開始★★

 ノーマルな円満夫婦であれば,例えば,その一方が単身赴任などで長期に別居していても,他の一方の元で過ごす子と面会したり,交流することは,その子の心神の成長にとってプラスになることは当然で,双方の親も心が癒やされ,なんらの矛盾も生じない。

 しかし,一転,関係が破綻し深刻な葛藤と憎悪の中にある両親に,同じ原理を強要することはできない。子をめぐる親の次のような精神的葛藤が紛争を生み出す。

★★引用終了★★

 

そして,渡辺弁護士は,非監護親の精神的苦痛,監護親の精神的苦痛を,次のキーワードで説明していきます。

 

(1) 非監護親の「寄る辺のない孤独感」

(2) 監護親の面会交流義務の「感情労働」性

 

 面会交流紛争は,多くの場合,前記2の(2)その1,つまり,子が幼い場合(乳幼児から中学生くらいまで?)で問題になます。

 そして,その事案における具体的な状況において,①非監護親(権利者)が,②監護親(義務者)に対し,③非監護親が子と面会交流を実施するために具体的な協力をしろと要求する(作為を要求する)ことを国家強制してよいかがテーマになっています。

 

 その争いでは,非監護親は,面会交流を実施することは子の福祉に叶うと主張し,監護親は,面会交流を実施することは子の福祉に反すると主張します。

 双方が,「子の福祉」を巡って熾烈に争います。

 

 ところが,その子自身は,「幼い子」です。

 

 「幼い」といっても幅があり,年齢によって問題状況は全然違ってくるでしょう。子の特性,非監護親の特性,両者の関係性でも全然違ってきますが。

 中学生になってきますと,1年生,2年生,3年生と,だんだん前記2の(2)のその2,つまり子が大きくなった後に近づいていきます。早ければ小学校の高学年でも,前記2の(2)のその2の考え方をベースに面会交流を進めていくのがその事案に即している場合もあります。

 

 子が①0歳~3歳,②4歳~6歳,③7歳~9歳,④10歳~12歳というようなそれぞれの場合について,監護親,非監護親それぞれが口にする「子の福祉」・・・・

 さらに子は独りとは限りません。兄弟姉妹がいて,それぞれの年齢と子の特性,そして,兄弟姉妹がいる中での面会交流実施に関する「その子」の「福祉」・・・・・ 

 

 面会交流の高葛藤事案は,渡辺弁護士の見解を先取りしますと,

 

非監護親の精神的苦痛から来る要求と

監護親の精神的苦痛から来る拒絶が,

「子の福祉」という「錦の御旗」獲得のために

熾烈に争う姿

 

と要約できます。

 

次の記事では,まず,非監護親の精神的苦痛として提示された(1) 非監護親の「寄る辺のない孤独感」について,考察していこうと思います。