罪責感について~こころを精神の目で眺めて~ | 金沢の弁護士が離婚・女と男と子どもについてあれこれ話すこと

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石川県金沢市在住・ごくごく普通のマチ弁(街の弁護士)が,日々の仕事の中で離婚,女と男と子どもにまつわるいろんなことを書き綴っていきます。お役立ちの法律情報はもちろんのこと,私自身の趣味に思いっきり入り込んだ記事もつらつらと書いていきます。

1.

 いきなり新シリーズ。

 本当は,この類の記事のテーマを「からだ・こころ・精神~回復のための小さなヒント」ってしたかったんだけど,字数オーバーで,「回復のヒント」に縮めざるを得なかった~。

 DVの被害を受けて傷つけられてきた貴女に,ちょっとこんな風に考えてみたら~ってお伝えしたいことを文章にしていこうかな・・・・と。

 

 実際に私と会ったことのある方々,「これ?私の話?」って思うかも。

 それは,あなたの話でもあり,あなた以外の多くの人の話でもある。

 というのは,私は,その人に,それを伝えたいと思ったときに,その話をしていて,それを沢山の人に繰り返ししてきたから。

 個々人の苦悩は個別固有のもので,十把一絡げにするのはよろしくないんだけど,DVの被害に遭った人にそこそこ共通する心理はあると思うのね。だから,違う人なんだけど,繰り返し,同じような話をしている。

 だから,リアルで私からこの話を聴いた人は,「これ?私の話?」って感じたら,同じようなことで思い悩んでいる人が沢山いて,しもちゃんは,こういう話をあちこちでしまくってんだなぁ,私もその一人だったんだなぁ・・・って思ってくれたらいいかな。

 

 以上,例によって,とっても長~い,前置きでした。

 

 この記事のテーマは罪責感。いよいよ本題に

 

2.

 ストーカーさんや,DV加害者さんは,意識的か無意識的かは分からないけれど,罪責感を相手に注入して相手の心と行動をコントロールすることに長けているなぁと思います。

 そして,そういう歪んだコミュニケーションにさらされ続けると,他のさまざまな「暴力」(DVにおける暴力概念です。身体的暴力に限りません。)の影響も相まって,罪責感が深く刻まれていくように思います。

 しかも,私の経験上,ストーカーの被害に苦しむ女性,DVの被害に苦しむ女性は,善良で優しいひとが多いんですね。だから,なおさら,罪責感が,そういう女性を苦しめ,そういう女性の心と行動をコントロールする心理操作の武器として用いられてしまうんじゃないかなって思います。

 

例えばですね,典型的な罪責感注入の例

 

「お前と別れたら,俺はもう駄目だ,生きていく望みもない,死にたくなる」

「お前が離れていくなら,俺は自殺する」

 

私は,こういう言葉って,とても強度の脅迫だと思っています。

以前,この記事で思うところを書いています。

「願いが叶わなければ死ぬ」という脅迫

 

典型的な「言葉の暴力」の例として,こういうのもよく紹介されていますよね。

 

「俺がお前に怒るのは,お前が悪いからだ。俺は本当は,怒りたくないんだ,でも,お前が,●●で俺に嫌な思いさせてばっかりだから,俺は,ホントは怒りたくないんだけど,お前のせいなんだよ。お前のためなんだ。そんなことも分からんのか。本当に駄目なやつだなぁ。」

 

他にもいろいろあります。

 

要するに,

 

ストーカーさんやDV加害者さんの内なる世界では,「俺様=被害者,お前=加害者」という図式が強かったりして,その図式を相手に押しつけたりすることが多いように思うのですね。

 

 お前の言動で俺様はとっても傷ついて嫌な思いをした(被害にあった)のだから,「加害者」のお前に対し,「被害者」の俺様が,こういうことをするのは「当然の権利」としてあるし,「加害者」のお前は,それを受け入れる義務があり,そして,それは,「加害者」であるお前のためなんだ~

 

 実際のところ,その両者の関係性をよく見ると,ストーカーさんやDV加害者さんの方が,「加害者」でしょうって言いたくなることを沢山やり続けておるわけなんですが,ストーカーさんやDV加害者さんの認知世界では,加害と被害が逆転しているわけですね。

 

 で,そういう歪んだ「加害ー被害の逆転」の認知枠組を,反復継続的に押しつけられていきますと,実体は,自分の方が被害に遭っているのに,「私の方が悪いんだ」(私=加害者,彼=被害者)という感覚が刻み込まれていくんだろうなって思います。

 そして,そのように刻み込まれたものは,なかなか消えてくれなくて,別れをようかどうかという場面では,「私が彼から離れていったら,彼はどうなるのだろう?」,「私が彼から離れていくのは私の身勝手なのでは」,「このくらいのこと我慢できない私が弱いのでは?」という感情が沸いてでたりすることも多いようです。

 

*別れるかどうかの場面では,「意味喪失の苦痛」も極めて大きいです。これまでの時間,努力,積み上げてきたもの・・・それがDV被害の日々であったと認知することは,とても大きな苦痛を伴います。このことは,この記事で書いていました。

 

「意味のある我慢」・6-1~彼との関係が無意味化する恐怖①

「意味のある我慢」・6-2~彼との関係が無意味化する恐怖②

 

3.

 DVの被害に遭った依頼者の話を聴いていると,選択の場面で,依頼者が罪責感を感じ,苦しんでいるのだなぁと私が感じることが多いです。

 そして,よく話を聴いていると,その方は,そういう罪責感にがんじがらめになっている自分を感じていて,そのことでも,「こんなふうに感じるから自分は駄目なんだ」と話したりもします。

 

 弁護士は敷居が高いので,弁護士である私のところに来る前に,配偶者暴力相談支援センター(石川県では,女性相談支援センターという名称)とか行政の女性相談室とかで相談を受けていて,そこで,DVについての説明を受け,罪責感についての説明も受け,その相談のプロセスの中で,「あぁ,これってDVなんだ。」と気づくことが多いんです。

 

 それはとても重要なプロセスですし,そういう利用しやすい相談センターが存在することはとても大切なことで,もっともっと増えてほしいなぁと思います。

 

 ただ,相談員さんの中には,なんとかDVであることに気づいてほしいという気持ちからか,または,DV加害者の手練手管に翻弄されて惑っている当事者に現実に気づいてほしいという気持ちからか,「●●●のように罪責感を感じることはない。そのように感じるのはおかしい,そのように感じるから彼にいいように利用されてしまう。」とかいった言い方を「うっかり」としてしまうこともあるように思います。

そのように話す相談員さんは,熱心に取り組まれている人なんだろうと思いますし,本当に,相談に来た当事者のためを思って,なんとかならないかと思って話しているんだろうと想像します。

 でも,そんな風に言われると,DV被害者の当事者の方は,「そんな風に感じるのはおかしなことなんだ,自分が悪いんだ,自分が至らないんだ」っていう気持ちにとらわれてしまいます。これって・・・DVの言葉の暴力の再演になってしまっているように思うんですね。

 

4.

 そのような折,私は,私の目の前にいて苦悩している方に,だいたい,次のような話をしています。

 かなり長くなりますが・・・・。

 

 罪責感・・・うん,私,思うんですけど,感情ってのは,起こるものなんです。

 起こる,起こらないということ自体に,良いとか悪いとかはないんですよ。起きちゃうんだもん。

 それにね,「罪責感」って言うと,なんだかマイナスのイメージですけどね,「責任感」っていったら,責任感ゼロって人よりも責任感ある人の方がプラスイメージでしょ。

 またね,もし本当にあなたが何か失敗して人に迷惑をかけて,あなたがその人に悪いことしたなぁとか申し訳無いなぁとか全く感じないとしたら,逆に,トンデモない人ってことになりませんか?人に迷惑かけて平気,申し訳ないとも思わない・・・厚顔無恥って言いますねそういう人のこと。

 

 あなたが,罪責感を感じる,もしかしたら,他の人よりも強く感じる方かもって思うとしたらね・・・それは,実は,あなたが,善良で,誠実で,優しい人の証とも言えるんじゃないですかね。

 たとえばね,子育てで,「私は駄目な母親なんじゃないか」って悩んでいる母親は,基本,良い母なんですね。だって,本当にどーしようもない母親は,「自分は駄目な母親なんじゃないか」って感覚を持ちませんもの。悩んでいるということ,それ自体が,その人の善良さ,誠実さ,優しさの証じゃないかなと。

 

 そしてね,この社会の多くの人間関係の中では,あなたが何か失敗をして人に迷惑をかけたとき,それに見合う罪責感を持つことは,むしろ当然のこと,そうあってほしいこと,人としてのあるべき姿ってことになると思うんですよ。それが無ければ,さっき話した厚顔無恥人間として,逆に非難されるよね。

 

 こんな風に考えるとね,まず,あなたが彼に罪責感を持ってしまうということ,それは,そもそも感情として起こるもので自分で抑えようとして抑えられるものでもないし,それどころか,あなたがそのように感じる心を持っているということは,実は,とっても素敵なことなんじゃないですかねぇ。あなたの善良さ,誠実さ,優しさ,人間性の表れ。

 

こんな風にね,ちょっと,自分の「心」から距離を置いて,ちょっと別の視点で考えてみるのよ。そして,罪責感を感じるということそれ自体は,「心」の動きとして,そのままその「心」を受け入れてあげたらいいんじゃないかと思うんです。素敵な心の働きですもの。むしろ,そういう自分を自分で褒めてあげていいんじゃないですか。

 

 ただね,相談員の方が言われたのは,そういう貴女の善良さとか誠実さとか優しさとかが,夫さんとの関係では,夫さんに利用されちゃっているという側面なんですね。

 一般の人間関係の中では,むしろ素敵なこと,望ましいことと受け止められる心の動きが,夫さんとの関係では,貴女を苦しめ,夫さんがあなたの心と行動をコントロールする道具に使われてしまう・・・それは,夫さんがそういう風に関係を歪めちゃっているからだと思うんです。あなたの素敵な心の動きを悪用して,罪責感を感じなくてもいいことにまで,罪責感を感じるようにさせてきた・・・・

 

 でね,貴女が,今も夫さんに罪責感を感じるとしても・・・それはそれでいいじゃないですか。だって,感じるものは感じるもの,感じるな!って言ったって無理な話。それよりも,さっき言ったように,そう感じる自分の心の有りようは,本来的に素敵な心なんだって思いましょうよ。

 ここは「思う」ね。「感じる」じゃないの。自分の心を,自分で「こうだよね」って「思う」。これはね,「心」じゃなくて,「精神」の働きなのよ。

 

「心」と「精神」・・・どう違うの?って感じだよね。

 

「心」は起こるもの,わき出てくるもの,動くもの,コントロールできないもの。それ自体は良いとか悪いとか言えないもの,感情は,大切なメッセージを秘めていることっていくらでもあるのよ。シグナルみたいな。

 

他方ね,「精神」は,距離を置いて「心」を眺めるもの,「自分の心」について,こうかな?って理解するもの,そして,自分の態度や振る舞いを決めるもの。

 

私,漫画好きなのね,あるお料理の漫画でね,『味いちもんめ』って漫画でね,「怒る」と「叱る」の違いを書いてた。超厳しいはずの板長の親父さんがね,伊橋君という若い板前が,さらに若い新米の見習い板前の教育係になってさ,その新米の失敗に怒鳴り散らしているときに,厳しい板長が,ぼそっと「怒ったらアカン」て言うのね。で,その伊橋君が,厳しい板長どーしたんだ~とか不満に思うわけよ。その後,伊橋君が,いろいろ学んで,「怒る」じゃなくて「叱る」じゃないといけないんだって気づくお話。これまで板長は,決して「怒らず」,自分を「叱って」くれていたなぁって気づいて,新米見習いにもそうしよって決意するってお話よ。

 

子どもがおいたするじゃない。まあ,世話している母親として,ムカっとくる。これは感情。心の動き。そりゃ,子どもがおいたしたらムカっとくるよ。そこで終始ニコニコしてたら,それ,逆にアブナイんじゃないの?自然な感情が麻痺してるんじゃない?って思う。ムカっと来て当たり前なんだよね。

 

でね,そのムカっとくるのにまかせて,その怒りの感情をストレートに表現しちゃったら,「怒る」になっちゃうのね。

ムカっときたとして,ぐっと踏み堪えて,この場面で,この子に,どのように言ってやるか,どう諭すかを考えて,その子のためになるように,言い方とかやり方を考えてその子に伝える。それが「叱る」・・・

 

ムカっと来た・・・それは起こるもの,「怒るが起こる」・・・親父ギャグかましてしもた~

 

ま,親父ギャグはともかくね,怒るという感情のままに「怒る」という振る舞いを決めているのも,実はその人の「精神」なの。ここでも,実は,最後に決めているのは,その人の「精神」なのね。「怒る」という感情を眺めて,ぐっと堪えて別の振る舞いをしようと決めているのも,その人の「精神」。

 

顔殴られたら痛いよ。顔に痣できちゃう。これ自然な身体の反応。痣できなかったら,超合金Zの身体?って人間じゃないわな。痛い目にあわされてムカっと来る。これ自然な心の反応。カイカン~なんて感じたら,ちと,アブナイ方向にいってしまう(笑)。

 

顔いきなりボカっと殴られてさ,その後,どうなる?どうする?

 

ムカっと来て,直ちにやり返す?

ムカっと来て,勝てそうかどうか考えてから,反撃する?

ムカっと来て,争いごといやだから,逃げる?

ムカっと来て,反撃したらさらに倍返しくらうくらいの体格さだけど,自分の「尊厳」のために,ズタボロにされても,一矢報いようとする?

ムカっと来て,でも,そこで,とっても「高尚」過ぎる精神を働かせて,左の頬を差し出す?

カイカンって感じて,「もっとぶって」とか言って左の頬を差し出す?

 

ムカっと来た後の振る舞い,どんな振る舞いでも,「精神」が決めているの。直ちにやり返す場合は,ほとんど働いていないように見えるけど,そこでも,やっぱ「精神」で決めてるのね。

私は,ヘタレだから,逃げるわ~。

 

あれ,なんの話だっけ?

そうそう,「心」と「精神」の違いね。なんとなく,そういうものかなって思ってくれればいいよ。

 

そしてね,罪責感を感じるは,「心」の動き。「心」の領域。

それを眺める「精神」が別にある。

 

「精神」でもって,ちょっと見方を変えてね,罪責感を感じている自分の心は,もともと素敵な心の持ち主なんだって,そう「思う」のよ~。

そしてね,次に,その心の動きがね,どういう人間関係でも,よい方向に働くとは限らなくて,夫さんとの関係では,悪く働いちゃう,自分を苦しめる働きをしちゃうんだって,距離を置いて,「精神」で眺めてそんなふうに「理解」するのよ~

そして,罪責感を感じる自分の心を大切にしつつ,「精神」の働きでいろいろ考えてみるの。

そうするとね・・・

あれ?別に罪責感を感じることないじゃん?って思えたり・・・

こんなことで罪責感を感じてたって,なんか変?とか思えたりね・・・

一足飛びにいかなくてもいいのよ。

まぁ,だんだん,そうなっていくんじゃないかな。

 

ストレートにそんな風にいかなくてもね,罪責感を感じる自分の心それ自体は,もともとは素敵な心なんだって思って,そして,いま,この場面で,どう振る舞うかを「精神」で決めていけばいいわけさぁ。

それは,時にはつらいなぁとかしんどいなぁとか感じることもあるだろうけど。「精神」ってのはね,「こうありたい自分」に向かっていくものなのよ。だから,しんどいなぁって感じることがあって当たり前だよ。さっきの「怒る」と「叱る」の話のように,ムカつきを感じつつ,その上で自分の振る舞いを決めないといけないときだってあるよ~。

 

長くなっちゃったね。

とりとめのない分かったような分からんような,禅問答ですか~みたいな~

 

まぁ,ちょっと頭のすみっこに入れておくくらいでいいんじゃないかな。