代々木公園から見える風景

代々木公園から見える風景

日々感じていることを、つれづれなるままに書きます。

 前回は、誰に見られているかを無意識に想定してしまうこと書いた。さて、この「誰」に関してさらに話をすすめる。自分が「こうありたい」と理性的に考えても、この「誰」の声が常に頭によぎる。

 

 言い換えれば、「こうありたい」という理性的な自分と、「誰」の声との議論が頭の中で始まってしまう。これが、一般的に「悩み」といわれるものだ。この「悩み」というものを抽象的に言ってしまったが、結局は悩みの種類に応じて対応方法を変えるしかない。例えば、病気なら医者に行く。眠いなら寝る。

 

 いろいろな状況の悩みがあるが、ここでは日々の社会生活を営む状況に焦点を当てる。この状況における「誰」というのは、学生なら学校の同級生、社会人なら会社の同僚、趣味のサークルなら趣味の仲間などにあたる。さて「自分がこうありたいという声」を上で記載したが、結論から言えば「自分がこうありたいという声」も「誰」になる。

 

 前回に、東洋社会ではこの誰を複数想定している話を書いたが、今回の話で言えば「誰」が頭に複数存在する状況である。我々の頭の中では、複数の「誰」が無意識に存在しており、内なる言い争いをしている状況である。何度も強調するが「無意識に」言い争いをするのだ。自分の意志で言い争いするのではなく、勝手に頭がそのような思考になってしまうのだ。

 

 このような状況において、どう考えるべきか。1つの方法として、言い争いをする2人の「誰」を仲裁する1人の「誰」を自らの内に取り込む作業である。これが一般的に「折り合い」というものである。これを行うのがもっとも難しい。というのも、仲裁する1人の「誰」が2つの声を制御するというのが難しい。実際には、どちらか一方の声が強く働き、他方の声は我慢を強いるという状況になる。

 

 このような状況は、結局、言い争いをする2人のうち、いずれかが勝った/負けたのと変わらないのだ。怖いのは、これが「無意識に」働く。繰り返しになるが「無意識に」である。このように考えると、仲裁する1人の「誰」ができることは、解釈を与えるしかないのである。つまり、言い争いする勝ったほうの「誰」への解釈を変えることで、負けた方の「誰」を納得させるのだ。

 

 この解釈を変えるのに、苫米地英人氏が提唱しているのが、「現状の外側にゴールを設定する」ということである。

 

 1つ目のポイントして、「目標への強い情念」を重要視している。他人から止められても、自分の目標をどうしても実現したい状況なのだ。こうなると、さきほどの言い争いする勝った方の声に重要性が感じなくなってしまう。なぜなら、勝った方の誰の声に従っても、強い情念を抱く目標を実現してくれないからだ。

 

 2つ目のポイントとして、「現状の外側」である。現状の内側に目標があるのなら、言い争いをする勝った方の声の重要性が脳を無意識に支配してしまう。だから、彼がもっとも強調する「現状の外側」は、無意識の声に負けないような、もう一つの「誰」を作り出す作業なのだ。

 

 平易な表現で言えば、我々は日々の生活で、自分が全く望んでいないのに社会的な声に影響を受けて、目標を持たないでくださいということである。

 

 この理論に対しての問いを投げかけて、この記事を終わりたい。というのも、強い情念をもつ目標の声は、おおよそ社会性を欠如することになる。なぜならば、現状の外側の目標に対する強い情念なのだから、社会性の優先順位は下がる。

 

 そうなると社会的に制裁を受ける可能性が大きくなる。この社会的な制裁に対して、強い情念をもつ目標の声が、打ち勝つことができるのかが問いとなる。

 

 というのも、「勝った方の声」というのは「望ましい社会性がある状況」とみなされていることなのだ。硬い表現で言えば、勝者が歴史を作り、勝者が自ら有利になるようにルール作りをした社会なのである。

 

 社会的な制裁に対して、強い情念をもつ目標の声が、打ち勝つことができるのか?それは、彼が良く書籍で提唱する「抽象度を上げて、利他的に生きる」ということである。次回はこれをテーマにさらに書いてみる。

 人間というのは、内なる情熱で日々の行動を駆り立てる生き物である。喉が渇いた、お腹が空いた、友達が欲しい、遊びたい、お金が欲しい、などの言葉で表現しきれない情念が自然と発生する。

 

 仏教の世界だと、このような情念を煩悩と呼び、瞑想で止観する方向に話が及ぶが、今回はこの仏教的な用語を避けて考えてみる。

 

 「情念を満たすことで、果たして情念が消えるのか」という問いを考えてみる。この問いは、NOである。実際に情念を満たしても、より強い情念が自ら無意識に増殖的に換気される。甘いものを食べたら、再度甘いものを欲しがる感覚だ。さらに行き過ぎると「脳内が情念に囚われる」というのが、薬物中毒の患者に該当する。

 

 さて、我々は日々の生活で無意識に情念が換気されてしまう。このような状況自体を悪いと評価するのではなく、換気された情念に対してどう注意を払うかに着目したい。つまり、情念を内なる声で制御する方法であり、欲望が発生した場合に自らの内なる声でフィルターを通す方法がある。

 

 このフィルターを一般的に人間性と言われる。人間性を形成する上で前提となるのが、「誰に見られているか」という観点である。言い換えれば、人間性を誰から評価されているかということである。私の推測となるが、昔の社会では「ムラ社会」「神」「仏」「先祖」「自然」から見られているという論理があったのであろう。

 

 「自らの情念を制御する内なる声」という人間性を、誰が見るのか?

 

 誰にも見られていないのであれば、自らの情念の歯止めはかからない。しかし「誰」を自らの内に想定していれば、無意識に歯止めがかかる。正確に言えば、「誰」から見て嫌悪を抱く情念に、自らも嫌悪感を抱くことだ。さらに考えていくと、自らが無意識に敬意をいだく存在に対して、「誰」を無意識に設定してしまうように思える。

 

 西洋社会では一なる完全なる神を「誰」として捉えていた。東洋社会では、遍く存在するという神を「誰」として捉えていた。ただ1つであっても、複数であっても、共通しているのは、「自らを救う神」である。言い換えると「自らを救いに導いてくれる存在」となる。

 

 「自らの情念を制御する内なる声」というのは、「自らを救いに導いてくれる存在」による声とも言い換えられる。声=見るという前提で考えると、「自らを救いに導いてくれる存在の声」こそが「自らの内なる声」なのである。

 ※本ブログは私見であり、学術的な解釈の解説ではありません。

 

 

というのも、理性もしくは分別は、われわれを人間たらしめ、動物から区別している唯一のものであるから、各人のうちに完全な形で備わっていると私は信じたいのであり、この点で哲学者たちの普通の見解に従いたいのである。① AT.VI.2

 

 理性は人間のみ存在する。動物に理性は存在しない。非常に余談であるが、この発想を悪用すると、「あなたは理性のない動物ですね」という差別につながる。もちろん、デカルトはそんな差別を意識していないと思われる。悪用するとの前提での話だ。あらためて強調したいのは、デカルトは理性というものに対しての信頼性が多分に存在するということだ。

 

 

したがって私の意図は、誰もが自分の理性をよく導くためにとらねばならない方法をここで教える事ではなく、ただ私が自分の理性をいかに導こうと努めたかを示すにすぎない。(途中省略)だが、私はこの書物を1つの物語として、あるいはそういった方が良いければ、1つの寓話として提示するのみであり、そこにおいては人がそれにならってよい例があれば、たぶん従わない方がよい他の多くの例もあるだろうが、私の願っていることは、それがだれにも害を及ぼさずにある人たちに有益であることがあり、みんなが私の率直さに満足してくれることである。① AT.VI.4

 

 引用が長くなったが印象的な言葉は「寓話」であろう。デカルトの本音が垣間見える部分だ。「民」の視点で「物語」「寓話」という言い回しを選んだデカルトを大いに評価したい。デカルトの寓話は護身術としての物語だ。同時代に宗教裁判で悲惨な目にあった人を横目にしての護身術としての「物語」だ。

 

 現代に目を向けた時に、フィクションというなの物語、ドラマでも小説でも「物語」が溢れている。現代の物語は、商業目的の物語だ。デカルトのような護身術としての物語を書く人が少ないように思える。つまり「同時代では理解できないくらい先を行き過ぎている思想」を提示するのに、身の危険が及ばないよう「物語」とする。きっと100年後に忘れ去られるであろう「物語」ではなく、100年後も読まれるであろう物語は、デカルトのような書物を言うのであろう。

 

 

私は幼少の頃から文字による学問で育てられた。(途中省略)というのも、多くの疑いと誤りとに私は悩まされたので、そこから得られた利益としては、自分を教育しようと努めていながら、自分の無知をますます知らされるということだけだと思われたからである。① AT.VI.4

 

 疑いや誤りに悩まされた。ただし、この後の言い回しもやはりデカルトの護身術を垣間見える。無知を知らされたことを「利益」と言った。もちろん、この「無知」(※1)は不知の自覚で有名なソクラテスを意識したのであろう。

 

 ソクラテスの無知を前提に深読みする。デカルトの疑いは、ソクラテスと同じ哲学者としての疑いです。そのような予防線を張ったのだろう。ソクラテスの弁明にあるソクラテスが裁判で有罪判決を受けた。これを踏まえ「方法序説」で有罪を受けても言い訳ができる。そのような予防線を張ったのだ。

 

 同時代の人々の共通認識としてのソクラテスを提示した。そのソクラテスの「物語」を上手に利用したデカルトの文字選定の上手さだ。

 

 もう1つ気になる箇所がある。「文字による学問」だ。当たり前だが「文字によらない学問」を暗に匂わせたのだ。私の感想だが、おそらくデカルトは「文字による学問」の限界を早くから察していたのであろう。

 

 「理性」という言い回しをしたが、本音は「理性というのを文字で表現するのは難しい」という認識にいたったのだと思う。「文字による学問への疑いと誤り」という本音を誤解を与えずに「理性」という言葉を用いた。

 

 それは神への信頼性を前提とする点にも垣間見えるような気がする。つまり神という存在を文字で表現するのが難しい。同じように理性も文字で表現できないのだ。それがデカルトの本音のように思える。

 

 <注釈>

(※1)「たしかに、少なくともその人よりは、まさに何かつぎのようなちょっとした点で、つまり私は自分が知らないことについては、それを知っていると思ってもいないという点で、知恵があるように思えたのです」②21d

 

 <引用文献>
①方法序説 /ルネ・デカルト 山田弘明 訳(ちくま学術文庫)

②ソクラテスの弁明・クリトン /プラトン 三嶋輝夫・田中享英(講談社学術文庫)

 ※本ブログは私見であり、学術的な解釈の解説ではありません。

 

 良識はこの世で最も公平に配分されたものである。① AT.VI.1

 

 デカルトは良識というものに対する信頼性をいただいている。例えば赤ん坊も老人も成人男女も良識が存在する。ただし公平ではない。赤ちゃんの良識と老人の良識が、同じく平等に存在するのではない。赤ちゃんは赤ちゃんなりの良識がある。老人にも老人なりの良識が存在する。では、その平等に存在しない良識に対して人はどう感じるのか?

 

 誰でもそれを十分に備えていると思っているので、他のどんなことにもなかなか満足しない人でさえも、自分がいま持っている以上を決して望まないもの ① AT.VI.1~2

 

 赤ちゃんは自らの良識が足りないことで、赤ちゃんは不平不満をいただくのか?老人が自らの良識が多分に存在することで、大いなる幸せをいだくのか?どちらも、「いだかない」というのが僕なりの解釈だ。

 

 つまり平等に存在しない自らの良識について、あれこれ不平不満を抱かない上、良識をさらに欲しがることもしないと。まぁ、その通りだろう。僕の良識が未熟で悩んでいた人、僕の周りで1人も見たことがない。

 

むしろそれは、よく判断して真と偽を区別する能力、すなわち本来良識あるいは理性と呼ばれているものが、すべての人において生まれつき平等であることを証拠だてているのである。① AT.VI.2

 

 良識を「理性」と言い換えている。理性は誰でも生まれつき存在する。「生まれつき」という点で「平等」だと言っている。「理性」とは何かも書いてある。理性とは「真と偽を区別する能力」であると。

 

というのも、よい精神を持っているだけでは十分ではなく、大切なことは、それをよく用いることだからである。① AT.VI.2

 

 「持つ」だけでは足りない。「もちいること」が重要だ。しかも、「よく」だ。例えれば、知識をつける事じゃなく、知識を組み合わせて活用することが必要だと、現代風に言える。理性を精神と言い換えている点も注目に値する。

 

 

 <引用文献>

①方法序説 /ルネ・デカルト 山田弘明 訳(ちくま学術文庫)

 人は生まれてから死ぬまでに、日々いろんなことを考えている。考えた末に信じるか信じないかを無意識に選択している。ただし僕らは決して「信じる」という言葉を使わず、何かしら理屈をつけて説明する。しかし前提を遡れば結局は信じていた概念にぶつかる。信じるという前提を避けて通れないのだ。信じる絶え間ない営みの結果として「自分にとって揺るがない信じる対象」を探そうとする。

 

 信じていた対象が間違っていなかった。そう確信して死んでいくのを無意識に求めている。「信じていた対象に間違いがない」というのは、「僕に幸せをもたらすと信じられる対象」と言い換えられる。幸せをもたらす信念が思考の行きつく先だと思う。誰もが古今東西考えてきたことだろう。

 

 ここで強調したいことがある。それは「信じるために考える」「幸せになるために信じる」という2つの概念を無意識に行っていることである。三段論法じゃないが、ゆえに「幸せになるために考える」という当たり前の結論になる。問題は媒介している「信じる」という概念である。「信じる」という概念は避けて通れないのだ。

 

 1つ前のブログで「自分以外を見つめることで自分を見つめる」と書いた。それは「自分以外の信じている概念を徹底的に見つめることで、自分が信じている概念を見つめる」と言い換えられる。僕らは「自分が何を信じているのか」を分かっていない。しかし自分以外の人が信じている概念を徹底的に分析する。その分析を通じて、彼ら彼女らの信じている対象が、ぼんやりと見えてくる。

 

 彼ら彼女らが信じている対象を、自分はどう考えるか。言い換えれば、彼ら彼女らが信じている対象を、自分は信じるのか、信じないのか、どちらとも言えないのか。その選択や分析こそが、自分が信じている概念だということだ。

 

 僕は特定の信念を人に勧めない。なぜなら、

 

 「他人の信念を分析することと、自分の信念を見つめることは同じである」

 

 と信じているからである。

 

 信念は無数に存在し、幸せも無数に存在する。無数に存在する信念という名の幸せがあるのなら、その幸せを僕は徹底的に理解する営みこそ、日本民が培うべき哲学と信じている。

 多くの著名人が日本人の哲学観の無さを誰もが口にする。どの著名人も共通しているのは、西洋からの輸入された思想を表層だけなぞって取り入れた結果、何か事が発生した場合の日本人の行動様式の薄さを指摘している。だからどうすれば良いという次の話がなかなか進まない。

 

 権力者から見れば「民」である日本人が権力者の思惑通り動けばよいから、哲学観というのは時の権力者が民間人の思想を植え付けるという慣習にあるし、今でも教育というラベルで思想を植え付けている。これに抗うためには、自らの思想が何を根拠としているかを徹底的に見つめる営みである。しかし、この営みには大きな壁がある。

 

 哲学観という言葉を使わずとも、我々はまず先人の行動様式をもとに生活をしており、その規範に合わなければ、別の規範を探し出して生活をするということをしている。問題となるのが、先人の行動様式の根拠を「あえて」深掘りしてこなかったことにある。この原因は2つある。

 

 ①先人の行動様式を「共通認識」として理解できない人が大半である。

 ②先人の行動様式を理解できた少数が、行動規範を変更する動機が薄い。

 

 まず①について「共通認識」という点を強調したい。我々は自分の行動を説明することは可能だが、説明相手にも「同じ状況だと認識させる」ことが難しいのである。②についても、同じ話で相手が理解できたとしても、理解できるのは少数である。数の論理で少数意見が負けるのは目に見えているため「行動規範を変更しない」か「社会から出ていく」という2択を迫られる。

 

 多くの日本社会では他の社会への逃げ場が存在しないため「行動規範を変更しない」選択をせざるをえなかった。自分を見つめる営みをしたところで、上記①と②の問題を解消しない限り、無駄な営みに過ぎないのだから、無意識に我々は自らの行動様式について思考停止してきた。

 

 しかし①について、明治政府が推し進めたのが以下の①'である

 

 ①’先人の行動様式を「特定社会の共通認識」として表層だけで理解できる人が大半である

 

 「頭では理解できるけど、私には関係ない」という状況について、「頭では理解できる」に重点をおくか「私には関係ない」に重点をおくか2つ考えられる。「私には関係ない」に重点をおくなら共通認識として理解できない。「頭では理解できる」に重点をおくなら、頭だけでとりあえず理解できる。

 

 西洋からの輸入された思想を表層だけなぞって取り入れた日本人ができたのは、まさに①’の状況だ。明治維新の時に、西洋の行動様式を取り入れたい権力者が、行動規範を変更する動機が強かったのだから②は表面上解消されている。あとは①さえ解消するために、①’にまで推進してきたのだと考えられる。

 

 この状況を踏まえて、①’をさらに推し進めよう。「他人の行動様式を頭だけでも理解できる」という状況まで過去の先人達が推進して成し遂げてきたのだから、われわれはさらに先に進むことができる。それは「自らの行動様式を理解する」ということだ。

 

 「自らの行動様式を理解する」ための根本思想として、苫米地英人氏の「空の定義」を引用する。

 
 釈迦の悟りの空とは、「とてつもなくある」ということ、「宇宙全部を満たすほどある」ということでした。一つの存在を見て、それが「ない」と考えるのではなく、一つの存在を見るだけで、宇宙のすべてが見えるということでした。

 

 「1つの存在を見るだけで、宇宙のすべてが見える」ということを言い換えれば、自らの行動様式を理解するためには、自分以外の行動様式を理解することが必要だと。そうであるならば、日本人に限らず、生きとし生ける人は、みんな自分以外の行動様式から学んで生きている。幼少期から現在もなお他人の行動を真似てわれわれは成長したのだ。だから他人の行動様式を理解することは、生きることそのものだ。これなら、誰でもできることだ、僕は確信した。

 

 自分以外の行動様式を、どの範囲まで考えるかはその人次第だ。生まれたばかりの赤ん坊だったら、間違いなく養育者であろう(親、兄弟、親戚、ペットなど)。赤ん坊だって無意識に自分以外の行動様式を理解しようとしている。ある程度の年齢になれば、他人の顔色を伺う行為を含めて、嫌でも他人の行動様式の理解度を深めるのは当然の行為だ。だから僕は日々の生活での営みをより1歩推進しているだけなのだ。

 

 他人に対する関心度合を高めれば、否応なしに自分への関心度合が高まってしまう。あとは、どのくらいまで範囲を広げるかだ。偉大な人であればあるほど、他人の範囲が広い。本当の偉人というのは、引用にあるとおり「宇宙のすべて」を見る人なんだと思う。

 

 日本民の哲学観として「自分以外を見つめることで自分を見つめる」ということを僕はこの日本に根付かせたいと思う。これを達成するためにはいろんな方法があるだろう。僕の力不足により、汎用的な方法を提示できないが、僕ができる範囲で方法論を提示したいし、僕も実践していきたい。