多くの著名人が日本人の哲学観の無さを誰もが口にする。どの著名人も共通しているのは、西洋からの輸入された思想を表層だけなぞって取り入れた結果、何か事が発生した場合の日本人の行動様式の薄さを指摘している。だからどうすれば良いという次の話がなかなか進まない。
権力者から見れば「民」である日本人が権力者の思惑通り動けばよいから、哲学観というのは時の権力者が民間人の思想を植え付けるという慣習にあるし、今でも教育というラベルで思想を植え付けている。これに抗うためには、自らの思想が何を根拠としているかを徹底的に見つめる営みである。しかし、この営みには大きな壁がある。
哲学観という言葉を使わずとも、我々はまず先人の行動様式をもとに生活をしており、その規範に合わなければ、別の規範を探し出して生活をするということをしている。問題となるのが、先人の行動様式の根拠を「あえて」深掘りしてこなかったことにある。この原因は2つある。
①先人の行動様式を「共通認識」として理解できない人が大半である。
②先人の行動様式を理解できた少数が、行動規範を変更する動機が薄い。
まず①について「共通認識」という点を強調したい。我々は自分の行動を説明することは可能だが、説明相手にも「同じ状況だと認識させる」ことが難しいのである。②についても、同じ話で相手が理解できたとしても、理解できるのは少数である。数の論理で少数意見が負けるのは目に見えているため「行動規範を変更しない」か「社会から出ていく」という2択を迫られる。
多くの日本社会では他の社会への逃げ場が存在しないため「行動規範を変更しない」選択をせざるをえなかった。自分を見つめる営みをしたところで、上記①と②の問題を解消しない限り、無駄な営みに過ぎないのだから、無意識に我々は自らの行動様式について思考停止してきた。
しかし①について、明治政府が推し進めたのが以下の①'である
①’先人の行動様式を「特定社会の共通認識」として表層だけで理解できる人が大半である
「頭では理解できるけど、私には関係ない」という状況について、「頭では理解できる」に重点をおくか「私には関係ない」に重点をおくか2つ考えられる。「私には関係ない」に重点をおくなら共通認識として理解できない。「頭では理解できる」に重点をおくなら、頭だけでとりあえず理解できる。
西洋からの輸入された思想を表層だけなぞって取り入れた日本人ができたのは、まさに①’の状況だ。明治維新の時に、西洋の行動様式を取り入れたい権力者が、行動規範を変更する動機が強かったのだから②は表面上解消されている。あとは①さえ解消するために、①’にまで推進してきたのだと考えられる。
この状況を踏まえて、①’をさらに推し進めよう。「他人の行動様式を頭だけでも理解できる」という状況まで過去の先人達が推進して成し遂げてきたのだから、われわれはさらに先に進むことができる。それは「自らの行動様式を理解する」ということだ。
「自らの行動様式を理解する」ための根本思想として、苫米地英人氏の「空の定義」を引用する。
「1つの存在を見るだけで、宇宙のすべてが見える」ということを言い換えれば、自らの行動様式を理解するためには、自分以外の行動様式を理解することが必要だと。そうであるならば、日本人に限らず、生きとし生ける人は、みんな自分以外の行動様式から学んで生きている。幼少期から現在もなお他人の行動を真似てわれわれは成長したのだ。だから他人の行動様式を理解することは、生きることそのものだ。これなら、誰でもできることだ、僕は確信した。
自分以外の行動様式を、どの範囲まで考えるかはその人次第だ。生まれたばかりの赤ん坊だったら、間違いなく養育者であろう(親、兄弟、親戚、ペットなど)。赤ん坊だって無意識に自分以外の行動様式を理解しようとしている。ある程度の年齢になれば、他人の顔色を伺う行為を含めて、嫌でも他人の行動様式の理解度を深めるのは当然の行為だ。だから僕は日々の生活での営みをより1歩推進しているだけなのだ。
他人に対する関心度合を高めれば、否応なしに自分への関心度合が高まってしまう。あとは、どのくらいまで範囲を広げるかだ。偉大な人であればあるほど、他人の範囲が広い。本当の偉人というのは、引用にあるとおり「宇宙のすべて」を見る人なんだと思う。
日本民の哲学観として「自分以外を見つめることで自分を見つめる」ということを僕はこの日本に根付かせたいと思う。これを達成するためにはいろんな方法があるだろう。僕の力不足により、汎用的な方法を提示できないが、僕ができる範囲で方法論を提示したいし、僕も実践していきたい。