何を信じるかを考える | 代々木公園から見える風景

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日々感じていることを、つれづれなるままに書きます。

 人は生まれてから死ぬまでに、日々いろんなことを考えている。考えた末に信じるか信じないかを無意識に選択している。ただし僕らは決して「信じる」という言葉を使わず、何かしら理屈をつけて説明する。しかし前提を遡れば結局は信じていた概念にぶつかる。信じるという前提を避けて通れないのだ。信じる絶え間ない営みの結果として「自分にとって揺るがない信じる対象」を探そうとする。

 

 信じていた対象が間違っていなかった。そう確信して死んでいくのを無意識に求めている。「信じていた対象に間違いがない」というのは、「僕に幸せをもたらすと信じられる対象」と言い換えられる。幸せをもたらす信念が思考の行きつく先だと思う。誰もが古今東西考えてきたことだろう。

 

 ここで強調したいことがある。それは「信じるために考える」「幸せになるために信じる」という2つの概念を無意識に行っていることである。三段論法じゃないが、ゆえに「幸せになるために考える」という当たり前の結論になる。問題は媒介している「信じる」という概念である。「信じる」という概念は避けて通れないのだ。

 

 1つ前のブログで「自分以外を見つめることで自分を見つめる」と書いた。それは「自分以外の信じている概念を徹底的に見つめることで、自分が信じている概念を見つめる」と言い換えられる。僕らは「自分が何を信じているのか」を分かっていない。しかし自分以外の人が信じている概念を徹底的に分析する。その分析を通じて、彼ら彼女らの信じている対象が、ぼんやりと見えてくる。

 

 彼ら彼女らが信じている対象を、自分はどう考えるか。言い換えれば、彼ら彼女らが信じている対象を、自分は信じるのか、信じないのか、どちらとも言えないのか。その選択や分析こそが、自分が信じている概念だということだ。

 

 僕は特定の信念を人に勧めない。なぜなら、

 

 「他人の信念を分析することと、自分の信念を見つめることは同じである」

 

 と信じているからである。

 

 信念は無数に存在し、幸せも無数に存在する。無数に存在する信念という名の幸せがあるのなら、その幸せを僕は徹底的に理解する営みこそ、日本民が培うべき哲学と信じている。