方法序説を読む(2) | 代々木公園から見える風景

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 ※本ブログは私見であり、学術的な解釈の解説ではありません。

 

 

というのも、理性もしくは分別は、われわれを人間たらしめ、動物から区別している唯一のものであるから、各人のうちに完全な形で備わっていると私は信じたいのであり、この点で哲学者たちの普通の見解に従いたいのである。① AT.VI.2

 

 理性は人間のみ存在する。動物に理性は存在しない。非常に余談であるが、この発想を悪用すると、「あなたは理性のない動物ですね」という差別につながる。もちろん、デカルトはそんな差別を意識していないと思われる。悪用するとの前提での話だ。あらためて強調したいのは、デカルトは理性というものに対しての信頼性が多分に存在するということだ。

 

 

したがって私の意図は、誰もが自分の理性をよく導くためにとらねばならない方法をここで教える事ではなく、ただ私が自分の理性をいかに導こうと努めたかを示すにすぎない。(途中省略)だが、私はこの書物を1つの物語として、あるいはそういった方が良いければ、1つの寓話として提示するのみであり、そこにおいては人がそれにならってよい例があれば、たぶん従わない方がよい他の多くの例もあるだろうが、私の願っていることは、それがだれにも害を及ぼさずにある人たちに有益であることがあり、みんなが私の率直さに満足してくれることである。① AT.VI.4

 

 引用が長くなったが印象的な言葉は「寓話」であろう。デカルトの本音が垣間見える部分だ。「民」の視点で「物語」「寓話」という言い回しを選んだデカルトを大いに評価したい。デカルトの寓話は護身術としての物語だ。同時代に宗教裁判で悲惨な目にあった人を横目にしての護身術としての「物語」だ。

 

 現代に目を向けた時に、フィクションというなの物語、ドラマでも小説でも「物語」が溢れている。現代の物語は、商業目的の物語だ。デカルトのような護身術としての物語を書く人が少ないように思える。つまり「同時代では理解できないくらい先を行き過ぎている思想」を提示するのに、身の危険が及ばないよう「物語」とする。きっと100年後に忘れ去られるであろう「物語」ではなく、100年後も読まれるであろう物語は、デカルトのような書物を言うのであろう。

 

 

私は幼少の頃から文字による学問で育てられた。(途中省略)というのも、多くの疑いと誤りとに私は悩まされたので、そこから得られた利益としては、自分を教育しようと努めていながら、自分の無知をますます知らされるということだけだと思われたからである。① AT.VI.4

 

 疑いや誤りに悩まされた。ただし、この後の言い回しもやはりデカルトの護身術を垣間見える。無知を知らされたことを「利益」と言った。もちろん、この「無知」(※1)は不知の自覚で有名なソクラテスを意識したのであろう。

 

 ソクラテスの無知を前提に深読みする。デカルトの疑いは、ソクラテスと同じ哲学者としての疑いです。そのような予防線を張ったのだろう。ソクラテスの弁明にあるソクラテスが裁判で有罪判決を受けた。これを踏まえ「方法序説」で有罪を受けても言い訳ができる。そのような予防線を張ったのだ。

 

 同時代の人々の共通認識としてのソクラテスを提示した。そのソクラテスの「物語」を上手に利用したデカルトの文字選定の上手さだ。

 

 もう1つ気になる箇所がある。「文字による学問」だ。当たり前だが「文字によらない学問」を暗に匂わせたのだ。私の感想だが、おそらくデカルトは「文字による学問」の限界を早くから察していたのであろう。

 

 「理性」という言い回しをしたが、本音は「理性というのを文字で表現するのは難しい」という認識にいたったのだと思う。「文字による学問への疑いと誤り」という本音を誤解を与えずに「理性」という言葉を用いた。

 

 それは神への信頼性を前提とする点にも垣間見えるような気がする。つまり神という存在を文字で表現するのが難しい。同じように理性も文字で表現できないのだ。それがデカルトの本音のように思える。

 

 <注釈>

(※1)「たしかに、少なくともその人よりは、まさに何かつぎのようなちょっとした点で、つまり私は自分が知らないことについては、それを知っていると思ってもいないという点で、知恵があるように思えたのです」②21d

 

 <引用文献>
①方法序説 /ルネ・デカルト 山田弘明 訳(ちくま学術文庫)

②ソクラテスの弁明・クリトン /プラトン 三嶋輝夫・田中享英(講談社学術文庫)