内なる情念を自ら制御する(2) | 代々木公園から見える風景

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日々感じていることを、つれづれなるままに書きます。

 前回は、誰に見られているかを無意識に想定してしまうこと書いた。さて、この「誰」に関してさらに話をすすめる。自分が「こうありたい」と理性的に考えても、この「誰」の声が常に頭によぎる。

 

 言い換えれば、「こうありたい」という理性的な自分と、「誰」の声との議論が頭の中で始まってしまう。これが、一般的に「悩み」といわれるものだ。この「悩み」というものを抽象的に言ってしまったが、結局は悩みの種類に応じて対応方法を変えるしかない。例えば、病気なら医者に行く。眠いなら寝る。

 

 いろいろな状況の悩みがあるが、ここでは日々の社会生活を営む状況に焦点を当てる。この状況における「誰」というのは、学生なら学校の同級生、社会人なら会社の同僚、趣味のサークルなら趣味の仲間などにあたる。さて「自分がこうありたいという声」を上で記載したが、結論から言えば「自分がこうありたいという声」も「誰」になる。

 

 前回に、東洋社会ではこの誰を複数想定している話を書いたが、今回の話で言えば「誰」が頭に複数存在する状況である。我々の頭の中では、複数の「誰」が無意識に存在しており、内なる言い争いをしている状況である。何度も強調するが「無意識に」言い争いをするのだ。自分の意志で言い争いするのではなく、勝手に頭がそのような思考になってしまうのだ。

 

 このような状況において、どう考えるべきか。1つの方法として、言い争いをする2人の「誰」を仲裁する1人の「誰」を自らの内に取り込む作業である。これが一般的に「折り合い」というものである。これを行うのがもっとも難しい。というのも、仲裁する1人の「誰」が2つの声を制御するというのが難しい。実際には、どちらか一方の声が強く働き、他方の声は我慢を強いるという状況になる。

 

 このような状況は、結局、言い争いをする2人のうち、いずれかが勝った/負けたのと変わらないのだ。怖いのは、これが「無意識に」働く。繰り返しになるが「無意識に」である。このように考えると、仲裁する1人の「誰」ができることは、解釈を与えるしかないのである。つまり、言い争いする勝ったほうの「誰」への解釈を変えることで、負けた方の「誰」を納得させるのだ。

 

 この解釈を変えるのに、苫米地英人氏が提唱しているのが、「現状の外側にゴールを設定する」ということである。

 

 1つ目のポイントして、「目標への強い情念」を重要視している。他人から止められても、自分の目標をどうしても実現したい状況なのだ。こうなると、さきほどの言い争いする勝った方の声に重要性が感じなくなってしまう。なぜなら、勝った方の誰の声に従っても、強い情念を抱く目標を実現してくれないからだ。

 

 2つ目のポイントとして、「現状の外側」である。現状の内側に目標があるのなら、言い争いをする勝った方の声の重要性が脳を無意識に支配してしまう。だから、彼がもっとも強調する「現状の外側」は、無意識の声に負けないような、もう一つの「誰」を作り出す作業なのだ。

 

 平易な表現で言えば、我々は日々の生活で、自分が全く望んでいないのに社会的な声に影響を受けて、目標を持たないでくださいということである。

 

 この理論に対しての問いを投げかけて、この記事を終わりたい。というのも、強い情念をもつ目標の声は、おおよそ社会性を欠如することになる。なぜならば、現状の外側の目標に対する強い情念なのだから、社会性の優先順位は下がる。

 

 そうなると社会的に制裁を受ける可能性が大きくなる。この社会的な制裁に対して、強い情念をもつ目標の声が、打ち勝つことができるのかが問いとなる。

 

 というのも、「勝った方の声」というのは「望ましい社会性がある状況」とみなされていることなのだ。硬い表現で言えば、勝者が歴史を作り、勝者が自ら有利になるようにルール作りをした社会なのである。

 

 社会的な制裁に対して、強い情念をもつ目標の声が、打ち勝つことができるのか?それは、彼が良く書籍で提唱する「抽象度を上げて、利他的に生きる」ということである。次回はこれをテーマにさらに書いてみる。