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前回、前々回のブログで
「私は何のために生まれてきたのか?」
「実存主義哲学と瞑想」
というお話をしてきました。
20世紀の哲学界の巨人、ジャン=ポール・サルトルが作った実存主義哲学。
ジャン=ポール・サルトル(1905~1980)
実存主義哲学では、
人間の実存は、本質に先立つ
と言われます。
これは、
人は何か目的があって生まれてくるのではない
まず初めに存在してしまっている
目的よりも、存在が先なのだ
だから、人は自分の本質(目的や意味)を、後から自分自身で決めるしかないのだ
という考え方です。
人は、あらゆることに目的や意味を探す生き物です。
何か対象を見ると、必ずその意味や目的、名前といったものを意識します。
例えばハサミを見た時は、
これはハサミという名前で、物を切るためのものである
という概念を、ハサミに貼り付けて見ています。
ところが、その貼り付けられた意味、目的、名前といったフィルターが、何かの拍子にはがれてしまうことがあります。
そして、その下にある存在そのものが見えてしまうことがあるのです。
その存在そのものは、とてつもなく生々しく、 とてつもなく鮮烈で、凄まじい迫力を持って、見る人に迫ってきます。
サルトルはおそらく、そのような存在そのもの(=実存)を見る体験をしたのでしょう。
目的や意味というフィルターを剥がして対象を見る
というのは、マインドフルネスなど仏教系瞑想のトレーニングではよくやることです。
仏教系瞑想では、
思考による意味付け、評価判断を加えずに、ただありのままに対象を見る
というトレーニングをします。
サルトルが瞑想をしていたかどうかはわかりませんが、
おそらく瞑想と同じ種類の体験をして衝撃を受け、それを元に実存主義哲学を作ったのでしょう。
仏教やヨーガなどの東洋哲学で、数千年前から言われていたことが、20世紀を代表する西洋哲学にも現れているのです。
実に面白いですね。
さて、対象から目的や意味を取り去ってしまうと聞くと、一見それは空っぽで味気ないものになってしまう気がします。
ところが、実際はそうなりません。
目的や意味を取り去った上で残る存在そのもの(=実存)。
それはものすごい迫力、鮮やかさ、生々しさを持っています。
むしろ、それこそが本質ではないかと思えるほどです。
もしかすると、意味や目的、名前といったものは、むしろ物事の本質を覆い隠しているのかもしれません。
いったいどちらが本質なのか、わからなくなります。
もし、自分の人生の意味や目的が見つからずに悩んでいる人がいたら
一度、その意味や目的を全て取っ払って、存在そのものと向き合ってみるのも、いいのかもしれません。
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