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前回のブログで「私は何のために生まれてきたのか?」という話をしました。

 

 

○○のために生まれた

 

というと、生まれる前から私が存在していて、生まれる前に目的を決めているように聞こえます。

 

しかし、生まれる前に私はいないので、目的を決めて生まれてくることはできないのではないか?

 

と私には思えます。

 

 

 

……という感じで、めんどくさい理屈をこねていたのですが、調べてみると、過去にも似たようなこと言っていた哲学者がいるようです。

 

有名なフランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトルです。

ジャン=ポール・サルトル(1905~1980)

 

サルトルは20世紀を代表する哲学者で、実存主義という哲学を作りました。

 

実存主義哲学では、

 

人間の実存は、本質に先立つ

 

と言われます。

 

いったいどういうことでしょうか?

 

 

 

例えば、ハサミはモノを切るために作られ、存在しています。

 

ハサミの本質は、モノを切ることです。

 

ハサミは生まれる前から、その目的が決まっています。

 

ます最初に目的があって、その後に生まれるわけです。

 

ところが人間の場合は、生まれる前から目的があるわけではなく、まず存在があります。

 

意味や目的より先に、とにかく存在してしまう。

 

存在が先で、目的や意味は後。

 

それを、

 

実存(=存在そのもの)は本質(=目的や意味)に先立つ

 

と表現したのです。

 

人は、まず存在してしまっている。

 

だから、人は自分の本質(目的や意味)を、自分自身で決めるしかないのだ。

 

 

 

サルトルの哲学は、当時(1950年頃)たいへん話題になりました。

 

日本でもサルトルの本がベストセラーになり、サルトルフィーバーが起きたそうです。

 

それまでの哲学とは全く違った、斬新な哲学だったんです。

 

 

 

さて、サルトルはどうやって実存主義哲学を思いついたんでしょうか。

 

そのヒントが、サルトルの小説「嘔吐」に書いてあります。

 

 

 

小説の中で、主人公のロカンタンという青年は、ある不思議な体験をします。

 

存在そのもの=実存を見る

 

という体験です。

 

世の中のあらゆるものから、意味や目的や名前といったフィルターがはがれ、存在そのものがあらわになる、という体験です。

 

 

 

人は何かを見る時、必ず対象の意味や目的、名前といったものを意識します。

 

例えばハサミを見る時は、

 

これはハサミという名前で、物を切るためのものである

 

という概念を、ハサミに貼り付けて見ています。

 

ハサミのような道具ではない、例えば松の木を見た時でも、

 

これは松という名前の木で、日本庭園などによく使われる風情のある木だ

 

という概念を貼り付けます。

 

小説「嘔吐」の中では、なぜかある時、そのような対象に貼り付けられた意味、目的、名前といったフィルターが全部はがれてしまうのです。

 

主人公のロカンタンの頭の中で何かが起き、そのフィルターがはがれ、その下にある対象の存在そのものが見えてしまうんです。

 

その存在そのものは、とてつもなく生々しく、 とてつもなく鮮烈で、凄まじい迫力を持って、ロカンタンに迫ってきます。

 

ロカンタンはその体験に衝撃を受けます。

 

存在そのもの、つまり実存をロカンタンは体験するのです。

 

 

 

おそらく、サルトル自身もロカンタンと同じような体験をしたのでしょう。

 

対象から意味や目的を取り去った後に残る、存在そのもの。

 

そのとてつもない生々しさ、とてつもないエネルギーを体験したのでしょう。

 

存在そのもの=実存のエネルギーを体験したことで

 

実存が先なんだ

 

実存が本質に先立つんだ

 

と心の底から感じたのです。

 

その感覚をもとに、

 

実存(存在そのもの)が、本質(目的や意味)に先立つ

 

という実存主義哲学を作り上げていったのだと、私は思います。

 

 


さて、この実存を見るという体験、どういうことか理解できるでしょうか?

 

さっぱりわからない、と言う方が多いかもしれません。

 

しかし、中にはわかる方もいるかもしれません。

 

瞑想なんかをやっている人は、心当たりがあるんじゃないでしょうか?

 

マインドフルネスなどの仏教系瞑想では、物事をありのまま観察する ということをやります。

 

ありのままを観察するというのは、例えば、対象の意味や目的や名前といったモノを取り去って、ただありのままを見るということです。

 

対象について考えるとか、対象を頭で理解するのではなく、ただそのまま見て、ただ感じるのです。

 

これは、サルトルの言っている実存(=存在そのもの)を見るということに、とてもよく似ています。

 

もう一回続きます!
 

 

 

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