「ホールデン・コールフィールドを追いかけて」 -17ページ目

「春のしわざ」

今日はいい天気だった。ゆっくり仕事をした。クライアントの家にお邪魔したり。お使いにいったり。ランチもいつもはデリバリーなのだが今日は歩いてオーダーしにいった。白いシャツは画廊に着ていかないのだが(汚れる)今日はアイロンしたてのを着て行き(それに噂のジーンズ)これも普段は履いていかないキャンペールの革靴。シャツだけで出掛けるのは不安だったので鹿皮の初秋や春のコートを着ていった。


気持ちいい一日。外を歩いていると、ふと気付いたことが・・。


『春だ』


思わずコトバにしてしまった。シャツはジーンズのなかに入れていないので春の風が脇腹のあたりをくすぐる。髪の毛もいつもより「ピッ」としていて空気が春になっているのがわかる。昨日もこんな雰囲気だったのだが、今日のほうが確実に春だ。あさ出掛ける前に爪を切っていったのも、春を感じやすくしていたかも知れない。外に出たときに春が匂った。考えてみれば朝のコーヒーも少し酸味がつよく感じたかも知れない、多分あれも春のせいだろう。


午後。画廊から4つも大きな作品を購入したクライアントの家に伺った。その家についているインテリアデザイナーの方を一緒に作品をどこに並べるか話し合う。Historic House、というくらい古い家で中に入った瞬間に壁がドライウォールではなく古い石膏かなにかで出来ていることに気付く。リビングの壁は全て木の板だった、釘を打つときに少し緊張する。人の住んでいる場所に写真や絵画を掛けるときは美術館や画廊とは違う気持ちになる。天井も低いし、窓も大きい。それらが生活感のある匂いを誘う気がする。画廊や美術館では「主役」だった作品たちが人の家に行くと「家」の一部になってしまう、作品たちの新しい「役目」。そしてコレクターたちは作品たちを所有する権利を渡されるついでに作品を保存/管理する責任も渡される。知らない家で知らない色の壁にたたずむ作品を残して、その家を出るとき、ペットのブリーダーたちも新しい家に子犬を残していくときにこんな気持ちになるのだろうか?


考えていたより早く仕事がおわり、画廊に帰るには遅い時間なので古本屋に寄って行く事にした(?)。本屋には「写真集が良く見える」薬みたいなのが撒かれていることがたまにあり家に帰ってよく見てみると「なんでこんなの買ってきたんだろう?」と思うことがある。その本屋で、それほど価値はないのだが好きな写真家の本をみつける、高くなかったので買うことにする(椅子に座ってよく考えてから買った)。


帰りのクルマから見える春の景色が心地よかった。なんとなく春の緑がかった光。色温度で考えるとちょっと高めだろう。愛嬌のないヤシの木の他に普通の木も少しづつ緑を取り戻しているからなのだろうか?


家に帰ってきたらシャツに少しだけ血がついている、良く見てみると親指が軽く切れていた。血はもうとっくに止まっているのだが、一体いつ切ったのだろう。さっきフレームを掛けたときだろうか? なぜか自分の血をみると、そわそわしてしまう。


これもきっと季節の変わり目の「春」の仕業なのだろう。

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豊穣の海 「奔馬」

三島由紀夫の「豊穣の海」四部作の第二巻、春の雪の次にあたる「奔馬」を読み終えた。「春の雪」を読んだあとすぐに読もうとしていたのだがどうもページが進まず、結局ニューヨークに持っていった小説の一冊、ほとんど地下鉄のなかで読んだ。

「春の雪」では三島の独自の文章リズムに慣れるのが難しく三歩読んでは一歩下がり読み直すような感覚だった。それはまるで慣れていない国の写真家の作品を観るようであり(例えばチェコスロバキアやイタリアの写真家のように)アメリカや日本のモダン写真のなかで生きてきた僕には新鮮で不可解な作品を目にした気持ちに似ている。

「奔馬」を読もうとした時にはソレには少しは慣れていたつもりなのだが「春の雪」の完璧なる悲劇的な恋に満足してしまっており、結ばれることのない愛があるように「豊穣の海」の次を読まなくともいいのではないか? という気持ちでなかなか読み始めることが出来なかった。

しかし今回の冬のニューヨークでコートを着てコツコツと音の鳴る靴を履いて出掛ける生活。さらに肩肘を張って堂々とした姿勢で向かわなければいけない仕事。それらにシンクロしたのか急にふと「奔馬」を読みたくなった。普段、画廊では決してつけることのない無酸性の白い手袋をつけて作品をコレクターたちに紹介するように(アートフェアーではそうして仕事をします)新鮮な気持ちで読む事が出来た。

ぬるま湯のようなカリフォルニア天気の下で読むべき小説ではなかったのだ。

三島由紀夫を読んでいて熱くなっているときに道を譲らないアメリカ人と肩があたり「無礼者!」と持っていた傘で叩き斬りたい気持ちになったり。地下鉄のなかで日本人の女の子に声を掛けられたり(三島の「奔馬」を読んでいる男に声を掛けるなんで何て野暮な・・・)。

奇妙だったのは、あの大雪のニューヨークの土曜日の夜、ついつい酒に酔い降りるべき駅を逃し地下鉄は止まり、タクシーも止まり歩いてブルックリンに帰ってきたのだが何処にだか読んでいた「奔馬」をなくしてしまった。読み残したページはわずか50ページほど、渋々と二冊目の「奔馬」を買って読み終えたが、あのまま酔って地下鉄のなかで寝すごし最終駅のコーニーアイランドの雪のなかにいたら死んでいた。僕のかわりに一冊目の「奔馬」は散ってくれたのかも知れない。

誇り高い破滅の愛が「春の雪」なら『奔馬』は革命に心酔した情熱だろう。どちらも男女関係なく、こころの奥底に潜んでいる恐ろしいほどの純粋さだ、大抵の場合それを解放することは危険である。そうさせることなく、その感情を文章で少しだけ教えてくれた三島に感謝し「豊穣の海」第三巻『暁の寺』に期待したい。

「a quirk of fate」


(注)これはフィクションです。


詳しく書くと2月26日、晴れ、日曜日のフィクション」


ニューヨークは寒い、25°F(ー3℃)夜中には18°F(-7℃)まで下がるらしい。


ものすごい風が吹いている、ニューヨークの風には足がついていて窓の横を通り過ぎるときにドンドンと蹴っていくので、とてもうるさい。中にはビニールを引っ掛けたまま蹴ってくる奴もありドンドンという音にガサガサが加わってすごい音だ。


濃いコーヒーを入れようと最近、気に入っているダークローストのコーヒー豆を砕く。煎ったアスファルトのような色をしている。このさいアスファルトでコーヒー入れてしまおうかと言うくらい寒い朝だ。

昼まえにアパートを出る。

35丁目にある韓国レストランでチゲを頼んでいたら横にいたコリアンのおじさんに韓国語で話かけられる、ちょうどその時にウェイターが注文をとりに来て辛さはどうしますか? と聞かれ横のオッサンへもメンツもあり「激辛で」と頼む。

石鍋にのせられてグツグツいいながら運ばれてきたチゲはマグマをすくって食べているようであった、辛すぎてスプーンが溶けた。

地下鉄に乗り、ホイットニー美術館に向かう、ホィットニーは72丁目だったか? 74丁目??

地下鉄の駅は68丁目か77丁目のどちらかだ(この寒いなか3ブロック以上も歩くことは危険すぎる)。


どうする?


外は寒くて靴のなかの親指が外れてしまっていて歩きづらい(しかしとてもじゃないが、靴下を脱いで指をはめている余裕はない)。


68丁目の駅に賭ける。


ホイットニーは74丁目にあった・・・(つまり西に3ブロック+北に6ブロック極寒の中を歩く)


指を震わせながら財布を出して美術館で働いていたIDを見せてディスカウントしてもらおうかと思ったが、さっきのマグマ・チゲで焼けてしまった舌で上手く英語が話せるわけでもなく、仕方なく$12ドルを払いそうになるが受付のおばさんもキムチの恐ろしさをしっているらしくタダで美術館に入れてくれる(臭ったのか?)。


そこでちょっとおかしい事が起こった、ロビーの床には桜の花びらがたくさん落ちている。なぜだ? 2月のニューヨークで??


その理由はすぐにわかった。


6階に向かうためにエレベーター、そこには綺麗な女性がいた、まるで枯れない花のようだ。ハチミツのような髪の毛。そのコとチラチラ目があうネームタグが胸のあたりで光る、どうやら此処で働いている人なようだ。ドアが開いてそのコが通りすぎるときに品のある香水の匂いがニヤリとした。いったい何という香水なのだろうか? エレベーターの中はまるで花見、桜吹雪が吹く。携帯の電源を切ってコートを脱ぐ、ここは美術館。


ホイットニーの5/6階にはアメリカのモダン・アート、主に painting が肩を並べる。2階から4階では特別展のホイットニー・ビンナーレ2006の準備中。


一通り絵を観て、ジャクソン・ポロックの絵に涙する。その絵は荒々しいポロックではなくシンプルな優しさを秘めている50年ころの作品。色は使っていない黄色く変色してしまったキャンバスに黒いペンキ。悩んでいたんだろうか? ふと気付くと横にはリー・クラズナーの小さい油絵が、その寄り添う2枚の絵画の姿に感動する(ふたりは夫婦だった)愛おしい。


一時間ほどでその常設展を観てしまい(何しろ毎回、観に来ているので)帰ろうとエレベーターに向かおうとしたら、大きなハスキーな声が美術館に響いている。エレベーターのドアの横には「free lecture at 2:00」と書いた小さな看板。覗いてみると、さっきの女のコがレクチャーをしていた。


ここの学芸員のひとりだったのだ。


ちょうどジョージア・オキーフの絵を説明していた、オキーフがニューヨークからサンタ・フェに引っ越したあとに描いた砂漠の山の上に牛の頭蓋骨が浮かぶ有名な絵。そのコの選ぶコトバ、アグレッシブなジェスチャー、強い風のようだ。


その次にさらにもう一枚のオキーフの赤やピンクの『花びら』の油絵を説明してくれる。その絵は美術史を勉強した者でなくとも女性のソレを感じることが出来る・・・性的な女性の「ソレ」だ。


In this painting, Georgia O'Keeffe presents natural forms from a strange new perspective. Her abstract arrangement of colors and shapes suggests a flower, a landscape, or even a woman's body・・・・



その「コトバ」を使わずに優しくオーガニック、ナチュラルと言った単語で「ソレ」の意味と可能性を説明する彼女。

ふと僕の目はそのコの身体にいく。黒いパンツと黒いシャツの美術館で働いているコらしい洋服、しかし身体のラインがくっきり見える。

性と美は同意語である事はよくあることだ。

歯医者で働いていた人がキスをするときに舌で相手の歯ならびを確認してしまう、と言っていた。

僕の目が彼女の身体を舐める。足、黒い洋服に対して派手な白い靴を履いている。太ももの部分が気持ち太い、何かスポーツをしているのだろうか?

彼女の声に酔う。

優しいお尻。左手の薬指に目がいく指輪はしていない(可能性はあるぞ!)。美しい背中。小さな胸。綺麗な肩の骨。

彼女の靴音が美術館に響く。

サラっとした首。カタチのいいアゴ。目の横に小さなニキビが2つ、バレンタインでチョコレートの食べ過ぎて出来たのだろうか? (ボーイフレンドがいるかも知れない・・) 目の色はグレー掛かったグリーンだ。


そのコと目が逢う。


髪の毛は後ろで結んでいる。


もしあそこに警官がいたら僕は痴漢で逮捕されてしまっただろう。しかし作品をあの声であんな風に説明されてしまっては目の行きどころはその絵ではなく彼女の身体を観てしまうのは仕方なかった。

彼女の言っていたことを頭に書き留めようとするが、それは僕が楽譜を書くようなことだ、音楽を聴きながら。

でもそれは僕だけではなかったはずだ。もしゴヤがいま生きていたら彼女の彫刻を彫っていただろうし、ムンクが生きていたら彼女をモデルにして「マドンナ」を描いただろう。


魅せられたのか観てしまったのか。


僕にはわからない。


そんな調子で、その甘そうな舌で話す3、4枚の絵を説明を聞く。聞くと書くより「聴く」と書いたほうが正解だろう。

最後にカルダーのモビールを説明してくれる。

風のない美術館の中のはずなのに揺れるカルダーのモビール、それと一緒に踊る影。僕も同じように揺れてしまう、風はどこから吹いてくるのだろう?


たぶん、その女のこからだろう。


待ち伏せた訳ではないが(実はそうだ)帰りのエレベーターでも一緒になる。作品も移動できる大きなエレベーターだ。

つごうよく、どの階でも止まってくれる。


すこし話す。


(その内容は君たちには教えられない)


「thanks」と、さよならの代わりに言った。


ドアを開けて表に出る。




53丁目にあるニューヨーク近代美術館に向かおう。




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after marden

ここ最近ちょっと取り組んでいる自分の個人的なプリントです。前回のブログに書いたブライス・マーデンの展覧会を観たあと、僕は彼の作品に影響されきってしまった。

こう云うときは何かを作って解決させるしかない。これはこのインスピレーションを生かして何か作品を作ってみようと思い近所の公園にカメラを持ってでかけてみた。こういうのは自分の作品とは言えないが「study」としてやれるし何ならタイトルに After~(影響されたアーティストの名前)で良いタイトルもつけれる(たまに都合よく出来てるアメリカの美術史)こうして他のアーティストに影響されそれを「ネタ」に作品をつくるアーティストは多い。それにこのシリーズには「マーデン」という言葉がタイトルに入ることは僕にとってはとても重要。そういうわけでタイトルは全て「After Marden」ということにした。




この手の木の枝の作品は探せばいくらでもあるだろうし、他人のコピーと言われてしまえばそれまでだが。僕は木の美しさを表現したいためにこのプリントを撮ったわけではない。

木や森がつくる複雑さはとても抽象的に見え、三次元の世界がなにか写真の撮る前に二次元の世界になっている気がした。

「水中に月影を掬(きく)せんとするの類にして」そんな和の感覚ももしかしたら表現できるのかも知れない。


ブライス・マーデン(The Muses)


untiteld(after Marden)拡大できます

これはまさにマーデンのコールマウンテンからThe Musesにいたるまでの絵を写真的にコピーしたもの。



untiteld(After Marden)

これはもう少しそれを写真的に近くに寄ってみたもの、でもこれは森の幾何学上的なことが存在してしまっていて僕が考える抽象的な世界とは違う。


***


マーデンの展覧会のタイトルは「plane image」プレーンを直訳すると:平らな, 水平な; 平面の。

それを想像するときに壁の前にある1枚の「空間の物質化」:

マーデンはレクチャーのなかで絵の上に1枚のガラス板を置き、その存在しないが存在する平面を「想像する」それがプレーンだと言う。そしてその平面:プレーンと絵の中身の近さを近づけることがモダンアートだと語る。つまり絵のなかに存在する「奥行き」や「遠近感」が無に近ければ近いほど抽象主義としてのモダンアートは完成に近づくということ。

マーデンの「plane image」についての解説(英語)1分くらいの長さなんで聞いてみてください

painting:絵=plane:平面+image:写像

つまりペインティングの表面の上には「イメージとプレーン」が存在していて、その2つをいかに近づけるかってことがモダンアートだって言ってる。 画布の表面と空間の物質化。

透視図法の線遠近法、モダン前の絵画には「奥行き」がある。 それをどんどん平面に近づける。いかに矛盾なく三次元の空間を二次元の平面に写し替えるのではなく非自然主義とでも書くできなのか。

ピカソを始めとしたキュビズムがそのきっかけを見つけ描き、セザンヌがさらに深くそれを理解し、モンドリアンやそういう人たちがどんどん平面にしていった。抽象主義がさらにそれを近づけていった。ロスコやポロックはさらに独自の方法を編み出した。 その後のポストモダンというのはそれを壊して次に進んだが、マーデンはそうではなくて今でも抽象主義を続けて追っている(つまりモダンはまだ解決されていない)。 そこにあるハズのメッセージは写真家としての僕にはどうあるのか?


そしてさらに、その「プレーンとイメージ」を近づけることと言うのは「photography:写真」のなかでは可能なのか?


出来るの?そんなこと??

↑ ・・・っという訳で今この僕はこの「森シリーズ:after marden」に取り組んでいるわけ。


プレーンフォーカス。写真でピントを合わせるということは被写体の前に1枚の見えないカーテンのようなプレーンを撮影すること。

ここで少し説明しておきたいのが被写界深度:写真の「絞り」というのはその布のような見えない存在の前後を考えピントを合わせること被写界深度について検索

つまり「逆パンフォーカス」にして、その前後の奥行きを無くしていく。これはマーデンの言っていた作品の上にあるイメージとプレーンを近づけるってことなんじゃないかと思ったわけ。それを使って目の前にある「林」の中間に存在する枝にピントを合わせた。それで手前の枝と奥の枝はボケており、それによってボケた枝たちは繋がり(手前の枝と後ろの木が繋がる)。

空が曇っているときの均等な明るい光で木や枝に影ができないとき、さらに訳の分からなさを深くできる。



これを撮影しているときに思いついたのは「逆さま」にプリントすること。そうすることによって無重力感のような雰囲気がつくれるような気がした。

(この画像の上の写真、それを半分くらい横にトリミングしたのが下の写真、僕の手が触れている)。それによって抽象さがさらに非日常的になる気がした。空には上も下もないように。さらに上に書いた「Plane」の存在したように(水面を上から撮影するのとは反対側の下から観た感覚)。そうして平面というのは、例えば水の平面のような場所を想像しそれを立てて起こして壁に貼るような存在でもある。

僕は個人的にあまり大きな写真のプリントは絵画に対抗しているようで好きではないのだが(だたその存在感だけを意識しているような気がするので)このシリーズは多いに絵画を意識しているので(そういう訳でトリミングもした)少し大きくプリントしたものを観てみた。



できれば縦1メートルくらいの大きなプリントにして観て見たいと思う。

こうしてしばらく自分の作品と数日一緒に過ごしてみないとわからないことって沢山あるんです、この壁は我が家のキッチンのダイニングスペースにて。

はてさて、いつまでこのシリーズに対して僕自身の「熱」が続くかはわからないが飽きるまではやってみようと想う。

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ミヤタブログ


アメブロは写真をあまり載せられないようなので。

最近、なぜだか読者さんが何人かついてくれたので(ありがとうございます~)あちらのブログもよろしくです。