ある晩、リビングのソファに座り、ドラマを見ていた夫。「字幕なしでも分かるん?」と感心した。時々、ネイティブであることを忘れる。普段、仏語で会話しているのに。


私の仏語レベル(仏検1級と今のところDALF C1)ではこのドラマを完璧に理解するのは不可能なのだ。仏検1級と言ってもレベルに幅があるので私のレベルではという意味。

 

検定については別の機会に書くとして、このドラマは隠語や暗示や冗談を楽しめなければ面白さが半減する作りだと思う。夫婦間で理解度に大差があるため、別々に視聴。

 

私は大概、日本語レッスンの合間か終了後に洗濯物を片付けながら数回に分けて見ている。一人ランチのお供には向かない。理由は、食欲が落ちる場面が含まれるから。

 

夫は夜食のお供に。人生の半分近くを日本で暮らしていても「外人」扱いされると嘆きつつも、ちゃっかり「白人」であることを利用して、仕事で英語を使っている夫。

 

夜はフランス人に戻りたいのか。↓これを書いたのは6年近く前だったけれど、未だに白人=アメリカ人と思っている人はいるのだろうか。

 

 

ということで、今朝、本人に確認してみたところ、この数か月で2回も「アメリカ人ですか。」と聞かれたらしい。この2024年に…驚きを隠せない。

 

アメリカ人だろうが、フランス人だろうが、本人も自覚しているとおり最も容易く仕事が手に入る人種、性別に属していることに変わりはない。

 

日本在住の外国人の機会不平等も深く考えるべきで、私の関心事の一つになりつつある。でも、今回はタイトル「不測の事態」に辿りつくためにドラマの話に戻ろう。

 

まあ、上級に相当する外国語レベルであっても、馴染みのない場面や分野で使用される語彙や表現というのは難解だ。第一、殺人が身近な話題という人はそれほど多くない。

 

一時期、海外ドラマにハマっていた夫に対し、私はハマるのが怖いから見ない。人生の時間は限られているから現実を生きたいのだ。特に恋愛、SF、ホラー、推理ものは見ない。

 

(推理ドラマ、Astrid et Raphaëlle)

仏:Je ne suis pas en mesure d'appréhender les... événements qui se produisent à l'improviste.
私にとって≪ appréhender ≫は捉えどころがない単語。仏和では「恐れる」「逮捕する」「理解する」等とあり、仏仏を見てもなかなか把握できない。
そう、まさに「捉える、把握する、扱う、手に負えない」のように「扌(手)」を想像すればいい。prendreやsaisirに近いか。

 

そんな私が、このドラマに引き込まれるのは、日本人や日本の描かれ方が雑ではないからだと思う。不測の事態を恐れるAstridが日本に惹かれる理由も理解できる。

 

日本以外で私がよく知っている(私は文化を人との交流や言葉の学習を通じて知ろうとするので、留学、仕事、結婚等で知り合った人が多いという意味)はフランス。

 

「不測の事態」、つまり、静かな海に波を立てたいという人たちが形成している社会だということも知っている。そういう人たちが日本に来るとどうなるか。過去の学習者たちは。

 

Vさんは言った。川に張り出した桜に近づきたいのに「日本には柵がたくさんある」と。ある人にとっては守られている感覚が、他の人にとっては、縛られている感覚となる。

 

私は必ずレッスンの台本を作る。オンラインレッスンでは手元に置いて、チラチラ見ているが、対面レッスンでは片手に紙を持ち、会話しながら目で追っている。

 

準備していることを評価してくれる人もいれば、何とかしてレッスンの流れを変えようと抵抗する人もいる。私の質問を無視したり、沈黙の後、全く違う話をし出したり。

 

N、Uさん、M。全員、カフェレッスンだった。Nは本人からの申し出により終了、Uさんは引っ越しにつき終了、Mは帰国に伴い終了。

敬称の有無に差をつけた。「日本語は変」「日本人は不潔」なんて敬意を欠く発言をする人間には妥当な処置かと。

 

ルールを破りたい、ルールから逃れたいという気持ちは分かる。というのも、高1の息子曰く、私自身が永遠の反抗期らしいから。


でも、社会の決まり事は守っているつもり。郷に入っては郷に従えでお願いしたい。静かな海に波を立てる必要はない。私はレッスンが円滑に進むように準備している。

 

決して相手のためではない。自分の心の安寧のため。「日本人は相手のことを考える。」なんて日本人自身が書いているのを時々見るが、皆、自分が一番かわいいに決まっている。

 

自分の心の安寧が社会の安寧に繋がっているというだけの話。でも、これほどの人口を抱える国で実現するのは至難の業だと思う。そのために必要だったのが標準化か。

 

大学で留学生係をしていた頃、メキシコ人留学生がアンケートに書いた文章が印象に残っている。以下、英文を日本語に訳したもの。

 

これほどのstandarization(標準化)を感じたのは、今までに訪れた国の中で日本だけである。快適な日常生活を送れるよう創意工夫されている。例えば、どこのトイレに行っても荷物を置くスペースがある。また、全国どこのコンビニ行ってもサービスやシステムが全く同じである。

 

例を挙げ出したらキリがない。最後に、駆け出しの頃にレッスンで扱った文章について。この課のテーマは、カルチャーショックだった。一見、日本を褒めているかのような内容。

 

『できる日本語 中級』より。

 

取り扱いに困ったものの、内容よりも語彙や表現に注目するようにレッスンを構成し、最後に私の意見も付け加えた。

 

「日本人は問題が起こらないように、問題が大きくならないように先に謝っておく。」と。調和や協調が優先される。


社会が言語を作るのか。言語が社会を作るのか。これからも日本語レッスンを通じて考え続けたい。以上、↓これらの続きに日々浮かんでくる考えを混ぜ込んだ内容となった。