先週のレッスンで扱った読解問題より。

 

疑問を持つこと、質問をすること、つまり問題を見つけることは、科学にとって非常に大事なことだ。否、科学だけではない。どんな分野であっても、何が問題なのかを常に知ろうとしなければならない。

(森 博嗣著『科学的とはどういう意味か』)

 

 

文章を最後まで読んで、問1~3に答えて、会話レッスンに移ろうとすると、Tさんが珍しく意見を言い始めた。引っかかった箇所はここ↓

 

また、100人くらいが聴いている講義で、毎回紙片を配り、全員に質問を提出させるようなこともした。それらの質問はワープロで打ち、個々に回答も書く。

 

相手は、いわゆるZ世代(生まれた時、既にインターネットが存在していた世代)だけれど、気になったのは「ワープロ」ではない。最後の「個々に回答も書く。」という箇所。

 

 「先生が答えを教えるのはあり得ない。」

 

と笑いながら言うのを聞いて、「あり得ない」も的確に使えるようになったんだなあと、5年前に出会った時のことを思い出した。

 

人を安心させる笑顔の持ち主という第一印象は変わらないけれど、日本語の運用能力が伸び、その笑顔に自信も備わってきたように思う。

 

ところで、最近のレッスンは、この二本立て。

 

 

会話テキストは話すのが苦手と言う相手のために選んだ。でも最近はあまり出番がない。というのも何気ない世間話から話題がどんどん展開していくから。

 

今回は、冒頭の読解問題からそのままフリートークとなった。Tさんは東南アジア出身。15歳で母国を離れ、高校はオーストラリア、大学と大学院はイギリスに留学。

 

「先生は答えを教えません。生徒が考えなければなりません。」

 

どこか教科書のような話し方は、理系にもかかわらず(偏見)、人間味あふれる相手にはしっくりこない。まあ、答えを与えずに自分で考えさせるということか。

 

その後、また何やら笑いながら単語を調べている。

 

「批判的思考」

 

はい、出ました。欧米(オセアニアにあるアングロサクソンの国々も含めよう)の教育を受けた人が得意気に言う "critical thinking"。ついでに仏語では ≪ esprit/sens critique ≫。

 

 

「物事や情報を無批判に受け入れるのではなく、多様な角度から検討し、論理的・客観的に理解すること(引用)」だと理解してはいるものの、素直に受け入れられない自分がいる。

 

「批判」という言葉自体、日本生まれ日本育ちには恐怖心を抱かせると思うのは私だけか。調和や協調を良しとする文化で育つと、この言葉に敏感になる…。

 

なんて考え始めたのは先週の金曜日、このレッスンの後だった。ブログを書くのに時間がかかっているのは、時間がどうこうという問題ではなく、慎重になるテーマだから。

 

米国からもたらされた "critical thinking"に対して、まさに「物事や情報を無批判に受け入れるのではなく、多様な角度から検討し、論理的・客観的に理解」しようとしているつもり。

 

続く。