摂津 伊丹城(有岡城)② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①主郭土塁石積②主郭③主郭④主郭西堀跡⑤駄六川⑥荒村寺

 

訪問日:2024年6月

 

所在地:兵庫県伊丹市

 

 伊丹氏は、藤原利仁(藤原北家魚名流)流加藤氏の裔を称し、史料上の初見は、延慶2年(1309)の伊丹三郎左衛門尉親盛で、『太平記』には親盛の父・伊丹四郎左衛門親資の名も見える。

 

 伊丹雅頼の子・伊丹雅興は細川政元に仕え、偏諱を受けて元扶に改名したという。永正4年(1507)政元が暗殺され、3人の養子(澄元・澄之・高国)による永正の錯乱では、まずは澄元に従った。

 

 当初は高国も澄元を支持して澄之討伐に加わり、澄元は政権を掌握したが、阿波細川家出身である澄元の側近・三好之長らの発言力が増すことに、元扶ら畿内の国衆の反発が高まった。

 

 畿内の混乱に乗じ、周防の大内義興が前将軍・足利義尹(義稙)を擁して挙兵、永正5年(1508)義興と結んで京都に侵攻した高国に、丹波国守護代・内藤貞正らとともに呼応し、澄元・之長らを近江に追った。

 

 義稙を将軍に復帰させた高国は管領に任ぜられ、政権を奪取したが、永正15年(1518)義興が周防に帰国すると、阿波に逼塞していた澄元・之長らが摂津に進出、義稙までが澄元に寝返る。

 

 永正16年(1519)澄元・之長らに伊丹城を落とされたが、永正17年(1520)等持院の戦いで高国が勝利して之長を処刑、阿波に逃れた澄元も死去すると、元扶も伊丹城を奪還した。

 

 大永6年(1526)高国が重臣の香西元盛を謀殺したことから、元盛の兄弟である波多野元清と柳本賢治の離反を招き鎮圧にも失敗、阿波では之長の孫・三好元長が澄元の遺児・六郎(晴元)を擁して挙兵する。

 

 伊丹城に拠った元扶は元清・賢治の攻撃に耐え、大永7年(1527)2月に高国が桂川原の戦いで三好勢に敗れ、近江坂本に逃れた後もよく耐えたが、10月に降伏して元長に従った。

 

 六郎・元長らは足利義維(堺公方)を擁立したが、享禄2年(1529)8月、今度は元長が賢治らと対立して阿波に逼塞してしまう。孤立した伊丹城は、同年11月に賢治の攻撃を受け、元扶は討死した。

 

 子の国扶は、享禄3年(1530)京都に帰還した高国に与したが、享禄4年(1531)の大物崩れで高国と運命をともにした。国扶の弟とされる雅勝(康直)は、今川氏・武田氏・徳川氏に仕えた。

 

 康直の3男・康勝は、寛永10年(1633)1万2千石に加増され、甲斐徳美藩主(兼甲府城番)となる。しかし、4代藩主・勝守が、元禄11年(1698)江戸城内の厠で自害して改易された。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 有岡城跡(主郭部)

 1979年12月 国指定  (1988年5月 追加指定)

 

 天正2年(1574)、織田信長の部将荒木村重が伊丹城を攻め、伊丹氏を追放し入城。摂津国(現在の兵庫県〜大阪府の一部)の中心であり、伊丹台地の地の利を最大限に活かし、最東端に城(主郭部)、その西に城下町(侍 町・町人町)をもつ(惣構)の城を整備し、「有岡城」と改名した。惣構内の北・西・南端に外城(砦)を配し、幾重にも堀を配していた様子が発掘調査から明らかになった。

 村重は信長配下で摂津守として活躍したが、天正6年、 信長から離反し、1年近い戦いの末に翌年落城。戦災で城・侍町は焼失した。

 その後、信長配下の池田之助が城主となったが、信長死後、天正11年に美濃国に転封となり、城は廃された。

 江戸時代、焼け残った町を基盤にし、江戸積酒造業を基幹産業とし元の惣構全体が伊丹郷町として復興した。城跡は「古城山」等と呼ばれた。明治時代、鉄道や停車場 (現伊丹駅)建設工事に伴い、城跡(主郭部)の大半が削平された。

 1975年以降実施した発掘調査により、土塁内の石組みや建物・庭跡等、貴重な遺構が残されていることが判明。

 市は保存を決定。

 国史跡に指定され、史跡公園として整備した。

 

2019年3月 伊丹市教育委員会

 

 

有岡城主 荒木村重

 

 荒木村重は、幼名は十二郎、後に弥介と改めます。父義村の代から池田城主 池田氏に仕えたとされています。

 織田信長の上洛後、池田勝正は、伊丹城主伊丹親興・芥川城主和田惟政とともに「摂津三守護」となり、村重は勝正の家臣として、池田家中において徐々に力をつけ、池田氏の内粉に乗じてついに頭角を現します。元亀元年(1570))池田知正らとともに勝正を追放し、翌年には勝正と結ぶ惟政を郡山(茨木市)の合戦で敗死させています。

 

 元亀4年(1573)、逢坂(大津市)にて細川藤孝とともに信長に対面し、その後は信長を主君と仰いで、将軍足利義昭を槇島城(宇治市)に攻撃する際にも従っています。この時の忠節を賞賛されて、信長より摂津国を一職支配する「摂津国主」に任じられます。

 天正22年(1574)11月15日、伊丹氏を追い落とし、伊丹城に入城します。以後ここを居城に定め、有岡城と改名しました。信濃守村重は、天正3年、摂津守になります。

 

 有岡城主となった村重は、以後、信長の配下として天正3年10月、播磨へ出兵し、翌年4月は光佐(顕如)が立て籠もる石山本願寺(大阪市)包囲に加わります。天正5年には、羽柴秀吉とともに紀伊の雑賀(和歌山市)を攻めています。

 天正6年、足利義昭や毛利輝元に通じて信長に反した別所長治を三木城に攻めます。

 しかし、同年10月、突如、村重も信長から離れ、石山本願寺とも盟約を結びます。その情報は安土城へ届き、信長は、村重を思い留まらせるために明智光秀ほか近臣を有岡城へ遺わしますが、村重の決意は変わりませんでした。 

 村重とともに毛利方についた御着城主 小寺政職でしたが、やはり信長方へ戻るため、村重を説得しようと、家臣の黒田官兵衛を有岡城へ遣わします。村重は、このままでは信長方となる官兵衛を城内に留め置きます。    

 11月、信長は安土城を発ち、古屋野(昆陽野)の陣に入ります。12月には主力部隊を塚口に置き、有岡城を総攻撃しますが落ちません。そのため、有岡城を取り囲むように付城を築くよう指示します。

 

 天正7年9月、村重は数名の家臣とともに、尼崎城主である嫡男村次のもとに移り、本願寺・雑賀・毛利方へ援軍派遣を要請しますが、村重が望むように援軍は来ません。

 有岡城の町が信長方に取られ、10月、上﨟塚砦より信長軍が侵入し、侍町に火が放たれ、すべてが焼かれ防備がなくなると、11月、城は落ちてしまいました。村重父子は尼崎城が落ちると花熊城(神戸市)へ移り、その後西走します。

 村重は、尾道にて入道し、「道薫」と名のります。信長の死後尾道より堺に移り住みました。

 天正14年(1586)、堺にて没したとされています。

 

平成26年2月 伊丹市教育委員会