摂津 鵯塚砦(有岡城)/杜若寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①鵯塚砦②有岡城西側縁辺部③有馬道④杜若寺⑤大塚鳩齋翁墓⑥案内板より

 

訪問日:2022年6月

 

所在地:兵庫県伊丹市

 

 猪名川沿いの伊丹では、池田や鴻池(伊丹市西部)大鹿(伊丹市東部)小浜(宝塚市)といった郷とともに室町時代中期から他所酒(京都以外の酒)が作られていた。

 

 永正2年(1505)伊丹で剣菱酒造の前身である稲寺屋が創業し、永正7年(1510)には紙屋八左衛門が山城国八幡から伊丹に移ってきたという。

 

 伊丹酒の画期は、山中鹿介幸盛の子という鴻池直文が伊丹に落ち延びて酒造家となり、慶長5年(1600)清酒を大量生産する方法を開発したことによる。

 

 寛文元年(1661)伊丹は公家の近衛家の所領となり、伊丹酒はその保護により一層の発展を遂げた。また豊かになった酒造家は俳人など多くの文化人を輩出する。

 

 俳人では松尾芭蕉と並び称された上島鬼貫(1661-1738)は酒造家・油屋の上島宗次の3男である。また同じく梶曲阜(1799-1874)は通称を大和田屋金兵衛といい、自身が酒造業を営んでいた。

 

 また、一文字屋与治兵衛こと俳人・北河原好昌は伊丹城主・伊丹氏の家臣・北河原氏の末裔で、俳人でもある赤穂藩士・萱野三平重実(1675-1702)の姉を娶っている。

 

 元禄15年(1702)三平は郷里の摂津国萱野村(箕面市)で自害、ちなみに好昌の子・北河原長好は元文5年(1740)三平の兄とともに叔父である三平の墓を建てている。

 

 同年、稲寺屋の『剣菱』が徳川将軍家の御膳酒となり、さらに『老松』『富士白雪』『菊名酒』が禁裏調貢御銘となるなど伊丹酒はそのブランド力を確立したかに見えた。

 

 しかし天保年間(1830-44)西宮で宮水が発見されると西宮など灘五郷の酒に江戸での販売シェアを奪われるが、近衛家への年貢という名目で京都に活路を見出した。

 

 それも明治になると衰退し『剣菱』も御影郷に移り、伊丹では『白雪』の小西酒造がほぼ孤軍奮闘という状況で醸造を続けている。なお『泉川』は福島県の廣木酒造本店(飛露喜で知られる)のブランドとなっている。

 

 

以下、現地案内板より

 

有岡城跡・伊丹郷町遺跡  第290次調査

 

 有岡城(1574-1579)は、東西800m・南北1.7kmの規模をもつ、荒木村重が築いた城です。城跡は、埋蔵文化財包蔵地(一部国史跡)であるため、遺跡に影響を及ぼすような開発行為がある時は、発掘調査を行い「記録保存」をすることになっています。

 この場所は、有岡城の縁辺部にあたります。マンションの敷地西側の石垣に沿って流れる水路が、外堀の名残と考えられていましたが、今回の調査によって、実際の縁辺部は、敷地の中央付近であることがわかりました。

 江戸時代後期(19世紀)に、大規模な造成工事が行われ、西側に土地が拡張されたのです。「天保15年伊丹郷町分間絵図」を見ると、敷地東側は伊勢町ですが、西側は「西台之内」と記載され、別々の土地であったことがわかります。この場所に酒蔵を建てるために、造成工事が行われたものと考えられます。

 

 

杜若寺(梶曲阜の墓)

 

 杜若寺は、万治3年(1660)の創立で古来の杜若(かきつばた)の名所であった。

 旧称杜若庵、俗に焼野という。

 境内には、梶 曲阜の墓のほかに伊丹市指定文化財となっている頼山陽撰並書の大塚鳩斎の墓碑がある。

 梶 曲阜(きょくふ)は通称大和田金兵衛、号は照顔斎。

 俳人の山口太乙の山口別家の大和田屋に生まれ、現在の本町5丁目辺りに住んでいた。

 幼い頃から俳諧に親しみ、ついに宗匠となる。

 安政3年(1856)の秋には二条殿から官服御免許を得、伊丹俳壇の第一人者として後進の指導をした。

 明治7年11月没す。

 著書として、「照顔集」「道しるべ」「俳諧古百家写帳」「伊丹荒木軍記」「照顔斎道の記」などがある。

 

 

伊丹市指定史跡

頼山陽撰並書大塚鳩斎墓碑

昭和41年9月9日指定

 

 この墓碑は、ここ浄土宗杜若寺の管理する墓地にあって砂岩製、碑高85cm、36.5cm角、台共の高さ197cmの燈籠2基をつけた立派な墓碑である。

 鳩斎は伊丹の酒造家大塚探古の養嗣子で、筆硯にも誉れがあって家業に精励し特醸酒の改良に熱中して銘酒「泉川」を造り出して名声を挙げ家運を興隆した。

 文政12年(1829)5月29日62才を以って病に没し、ここに葬られたが、その墓銘を孤子信行が委嘱したので山陽が筆をとったもので山陽晩年の作としてまことに雄渾に書かれている。

 伊丹は近世近衛家の采地となってから酒造が急速な発展をとげ、遂に名実共に天下第一の名醸地となった。当時諸白といった伊丹の酒がその量質共に極めて優れていたことは言うまでもないが、それにもまして当時第一流の文人たちが筆をそろえて宣伝に努めた効果が多大であったことをみのがすことができない。

 この碑銘はその間の消息が如実に記されていて、山陽が伊丹諸白、特に泉川を如何高く評価していたかが明白である。この墓碑によってこうした伊丹諸白と文人墨客との関係の一面がうかがわれる貴重な史跡である。

 

昭和44年3月1日 伊丹市教育委員会