摂津 伊丹郷町 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①旧岡田家住宅②旧石橋家住宅③酒蔵通り④大蓮寺⑤法専寺⑥大溝

 

訪問日:2022年6月

 

所在地:兵庫県伊丹市

 

 千代松は大永2年(1522)細川高国に与する伊丹城主・伊丹元扶の子として生まれた。母は伊丹氏家臣・間野時秋の娘。兄(叔父説あり)に伊丹国扶がいる。

 

 大永7年(1527)父は細川晴元方の波多野元清・柳本賢治兄弟に伊丹城を攻められ降伏して晴元方に転じるが、享禄2年(1529)三好元長と対立した賢治に伊丹城を攻められ討死する。

 

 千代松は外祖父・時秋とともに伊勢に逃れた。兄・国扶は享禄3年(1530)賢治が播磨で暗殺され、高国が京都に帰還するとこれに与するが、享禄4年(1531)大物崩れで高国に殉じた。

 

 伊丹城には従兄弟の伊丹親興が入り、細川晴元に与した。伊勢から上野などを流浪したという千代松は元服して伊丹雅勝と名乗り、37歳の永禄元年(1558)駿河の今川義元に仕える。

 

 経緯は不明だが、正室に今川氏重臣・岡部久綱の娘を迎えており、永禄3年(1560)桶狭間の戦いの後は今川氏真に仕え、岡部氏一族の土屋貞綱とともに今川水軍を率いた。

 

 永禄11年(1568)氏真が武田信玄により没落すると、貞綱とともに信玄に仕えて武田水軍に再編し、元亀2年(1571)九鬼氏に敗れた北畠氏の伊勢水軍・向井正綱と小浜景隆がこれに加わった。

 

 正綱・景隆の招聘には伊勢に流浪していたという雅勝の関与があったと思われる。また、その水軍の将としての基礎は伊勢で養われたものとも考えられる。

 

 武田水軍は天正8年(1580)駿河湾海戦では北条氏の伊豆水軍と繰り広げたが、天正10年(1582)武田氏が滅亡すると、武田水軍は徳川水軍となり、雅勝は駿河清水の御船奉行に任ぜられた。

 

 恐らくこの頃に家康の偏諱により伊丹康直と改名したと思われる。慶長元年(1596)75歳で死去、家督は3男・康勝が継ぎ、長男・虎康、次男・虎重らも徳川氏の旗本となった。

 

 康勝は勘定奉行を務め、寛永10年(1633)には甲斐徳美藩1万2千石の大名となったが、曾孫の4代・勝守が元禄11年(1698)江戸城内の厠で自害し、徳美藩伊丹氏は改易となった。

 

 なお、2代・勝長の4男が肥前大村藩主・大村純信の末期養子となり、大村純長(純信の室・松は姉妹だが大村氏との血縁関係はない)と名乗って4代藩主となり、以降その子孫が続いた。

 

 

以下、現地案内板より

 

伊丹郷町

 

 江戸時代の伊丹郷町は都の貴族近衛家の領地となり、城は置かれず、町の有力酒造家から選ばれた惣宿老や御金方らの役人が近衛家の指示のもとに町政を担当しました。

 伊丹郷町の近郊「鴻池」に始まったと云われる清酒醸造は、ここ伊丹郷町で本格的に行われ、近衛家の保護のもとに大いに栄えました。伊丹の酒は「丹醸」とよばれて愛好され、最盛期には毎年20万樽もの酒が酒廻船で江戸に運ばれています。こうした伊丹郷町の豊かな経済は、多くの文人墨客が訪れるなど、活発な文芸活動をもたらしました。

 伊丹郷町は、伊丹・北少路・昆陽口・外城・高畑など15の村が一続きとなった町場で、その中心部伊丹村は酒造業の繁栄とともに次第に広がり、江戸後期には伊丹郷町全体で約2,500軒の町屋と10,000人の人口をかかえる大都市に成長しました。

 

伊丹市教育委員会

 

 

伊丹郷町の大溝跡

 

 平成15年度に行った現在地北側の敷地で発掘された大溝を再現しました。江戸時代の古絵図にも描かれている水路で、本町通りに面して建ち並ぶ酒蔵からの排水が主な用途でした。酒の仕込みの時期には、酒の甘い香りが漂っていたことでしょう。

 この度の発掘調査により、有岡城の堀を埋めた跡地に石造りの大溝を築いていたことがわかりました。大溝の築造時期は、伊丹の酒造業が発展する江戸時代前期の頃です。

 大溝の規模は、幅1〜1.2m、深さ1〜1.5mで、松の丸太材や廃船の板材を敷いた上に割石や川原石を積み上げていました。

 

伊丹市教育委員会

 

 

「惣宿老役所」跡 ー伊丹の自治発祥の地ー

 所在  伊丹市中央3丁目406番地

 旧所在 伊丹市中の町406番地

 

 元禄10年(1697年)、それまで伊丹村を統轄していた町惣年寄(町役人)にかわり、当時全国的に名声を博した酒造家の組織であった酒屋年行司から24人が惣宿老に任命され、町政を担当する「惣宿老制」が新しく発足しました。

 惣宿老は、伊丹郷町の内近衛家領に属する伊丹村を含む12村を統轄し、郷町を構成する町村全般に関する政務、つまり公務ならびに相談ごとなどを職務としました。当時、堺のまちとともに日本でも珍しい町民が中心となった自治制度でした。

 その時の役所が、この地にあった近衛家の会所で、いわば伊丹の自治発祥の地といえます。

 以来、昭和47年7月(1972年)、市庁舎が移転するまで、275年の間、伊丹の政務の中心地として親しまれました。

 庁舎の移転に伴い、政務地としての役目は終りましたが、歴史上意義深いこの地は、輝く伊丹の未来に向け、このたび産業振興の拠点として「ネオ伊丹ビル」に生まれ変わりました。