摂津 岸の砦(猪名野神社)/有岡城堀跡 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①猪名野神社拝殿②猪名野神社本殿③猪名野神社相殿社④岸の砦土塁⑤有岡城の堀跡⑥堀跡案内板

 

訪問日:2021年5月

 

所在地:兵庫県伊丹市

 

 近衛基煕は慶安元年(1648)後の関白・近衛尚嗣の子として生まれた。尚嗣の父・近衛信尋は後陽成天皇の第4皇子なので、基煕は後陽成天皇の男系曾孫にあたる。

 

 実母は家女房・瑤林院だが、承応2年(1653)尚嗣が32歳で死去したため、後水尾上皇の命で上皇の第3皇女である尚嗣正室・女二宮(母は徳川和子)が養母となった。

 

 万治元年(1658)11歳で早くも権大納言となり、寛文元年(1661)伊丹一帯に所領を与えられ、寛文4年(1664)後水尾天皇の第15皇女・常子内親王を正室とした。

 

 寛文5年(1665)内大臣、寛文11年(1671)右大臣、延宝5年(1677)左大臣と順調に出世、延宝7年(1679)長女・煕子が甲府藩主・徳川綱豊に嫁ぐ。

 

 しかし、延宝8年(1680)後水尾上皇が崩御して霊元天皇の親政となると、天和2年(1682)右大臣の一条冬経を関白・藤氏長者に越任させる異例人事となる。

 

 貞享2年(1685)野宮(猪名野神社)の本殿玉垣を再建、翌貞享3年(1686)には本殿が再建されている。貞享4年(1687)霊元天皇が東山天皇に譲位して院政を開始。

 

 基煕は院政に反対する幕府と結んで元禄3年(1690)冬経を失脚させて関白に就任、王政復古志向の霊元上皇に対し、親幕府的な立場でことごとく反対した。

 

 元禄16年(1703)鷹司兼煕に関白職と藤氏長者を譲る。宝永元年(1704)娘婿の綱豊改め徳川家宣が将軍・徳川綱吉の後継者と決定し、煕子とともに江戸城に入る。

 

 宝永3年(1706)江戸に下向し、綱吉・家宣と会見、宝永4年(1707)長男・近衛家煕が関白・藤氏長者に、宝永6年(1709)綱吉の死去により家宣が将軍に就任。

 

 同年、東山天皇が中御門天皇に譲位して院政を開始すると、基煕は徳川秀忠以来の太政大臣に任ぜられるが、すぐに健康問題を理由に辞任している。

 

 その直後、東山上皇が36歳で崩御したため再び霊元上皇の院政となる。宝永7年(1710)基煕は再び江戸に下向して家宣らと会見している。

 

 霊元上皇はこの基煕の関東接近を憎んだようだが、一方で同年には家熙が太政大臣に任ぜられ、正徳2年(1712)には家熙の娘・尚子の中御門天皇入内が決定している。

 

 享保7年(1722)基煕は75歳で薨去した。

 

 

以下、現地案内板より

 

御由緒略記

当社は古く野ノ宮、天王ノ宮と云われ、祭神は猪名野生大神と称し建速須佐之男命を祀る。

孝徳天皇の御代猪名寺に在ったのを延喜4年(904年)に此地に勧請したものと云う。

寛文元年伊丹の地は近衛家の所領となり近衛基煕公は貞享2年(1685年)本殿玉垣を再建された之が現在の宝物である。

爾来伊丹郷町の氏神として賑わい明治2年に至り神仏分離と共に猪名野神社と改めた。

猪名野神社

 

 

国指定史跡 有岡城 岸の砦跡

 

 有岡城は、伊丹台地の東縁の高台を巧みに利用した平城である。侍町、城下町の周囲を土塁と堀で囲み、町ぐるみを城塞化した惣構構造で、南北1700m、東西800mの範囲に及んでいる。要所には、岸の砦、上﨟塚砦、鵯塚砦が築かれていた。

 砦のうち有岡城惣構の北端に設けられたのが、岸の砦である。位置的にみて猪名野神社境内にその場所が推定されている。境内には土塁跡・堀跡が残されており、往時を偲ぶことができる。

 天正7年(1579)、織田信長の有岡城攻めのとき、荒木村重の重臣渡辺勘大夫が守っていた。

 

平成5年3月1日 伊丹市教育委員会

 

 

有岡城の堀跡

 

 この城は、伊丹氏によって築かれました。築城時期は鎌倉時代末頃、初期の頃は館ほどの小規模な城であったものが、いくたびかの戦乱をへて、次第に堅固な城へと変わっていったと推定されます。

 天正2年(1574)、織田信長配下の池田城主荒木村重に攻められ、伊丹親興は城を追われます。城主となった村重は、城、侍町、城下町の周囲を土塁や堀で町ぐるみを城塞化した総構えと呼ばれる構造をとりいれ、戦国時代にふさわしい堅固な城に改造したのです。

 この場所は、当時の城下町(町屋)にあたります。街路整備に際して発掘調査を行なったところ、幅3.8〜4.5m、深さ1.5〜1.7mの堀跡が発見されました。この堀跡は、北側において4ヶ所で発掘されており、当地点より北に延びて昆陽口通りの手前で東に折れていることがわかっています。確認された堀の総延長は140m。村重の有岡城改造の一環で造られた防御施設の一つと考えられます。

 

平成13年3月 伊丹市教育委員会