播磨 高砂向島砲台 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①砲台跡②石垣③工楽新田④遠景⑤石材

 

訪問日:2021年5月

 

所在地:兵庫県高砂市

 

 松右衛門帆を発明し、幕命により択捉や箱館で築港を手がけた松右衛門は、功により「工楽」の姓を与えられ、工楽松右衛門と名乗った。

 

 松右衛門は68歳となった文化7年(1810)故郷高砂港の浚渫・改修に着手したが、文化9年(1812)70歳で死去する。

 

 初代の跡を継いだ二代目・工楽松右衛門は、港の改修とともに、文政2年(1819)には高砂の海岸に新田(工楽新田)を開拓した(現在のカネカ工場の地)。

 

 三代目・工楽松右衛門は文化11年(1814)に生まれた。嘉永3年(1850)二代目・工楽松右衛門が死去、三代目を名乗る。

 

 向島砲台が築かれた文久3年(1863)姫路藩に高砂港のさらなる改修を願い出ている。砲台の築造にも中心となって関わっていたと思われる。

 

 翌文久4年(1864)には湛保と呼ばれる防波堤が完成し、初代から55年の歳月をかけた高砂港の改修が完了した。三代目・松右衛門は明治14年(1881)68歳で死去した。

 

 

以下、現地案内板より

 

高砂向島砲台場跡

湛保の祠

 

 文久3年(1863)に加古川河口に広がる中州の向島南端に築かれた台場で、大砲が3門据付けられたとされる。高砂向島台場築造以前は下流側に川口御番所、より上流側には常番所(高砂常番所)の2箇所の番所を設けて高砂江の整備にあたっていた。

 また、文久4年(1864)には台場の西隣に湛保(人造の港)が築造され、祠には港の施設などを築いた三代目工楽松右衛門らの名前が刻まれている。この祠は西側対岸の西材木町にあったが、昭和4年(1929)に移築された。現在も堤防の基段部分に当時の湛保の石垣が残っている。

 

高砂市みなとまちづくり構想推進協議会