摂津 北村(西国街道+多田街道) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①伊丹坂②和泉式部の墓③辻の碑④西国+多田街道

 

訪問日:2021年5月

 

所在地:兵庫県伊丹市

 

 藤原保昌は天徳2年(958)藤原南家・藤原致忠(従四位下・右京大夫)の子として生まれた。弟に藤原保輔ら、姉妹に源満仲室(河内源氏の祖・源頼信の母)。

 

 永延2年(988)弟・保輔が盗賊の首領であるとして追捕宣旨が出され、父は捕縛され、その後保輔も捕えられて自害した(日本最古の切腹事例か)。

 

 保昌には累は及ばず、同年円融院判官代、正暦3年(992)日向守を務め、長徳元年(995)には源頼光とともに大江山の鬼(酒呑童子)を討伐した。

 

 武勇に優れ、源頼信(頼義の父、義家の祖父、6世孫に頼朝)・平維衡(伊勢平氏の祖、5世孫に清盛)平致頼とともに「道長四天王」と称された。

 

 寛弘2年(1005)肥後守、長和2年(1013)大和守兼左馬権頭を歴任、この頃和泉式部を妻としているが、年齢からして再婚同士か。

 

 長和4年(1015)頃に丹後守となり、妻とともに丹後に下向し、その後大和守に再任され、最終的には摂津守を務めた。

 

 長元9年(1036)79歳で死去、『後拾遺和歌集』に和歌1首が採録されている。また、祇園祭の舁山の一つ・保昌山は和泉式部との恋の説話に基づく。

 

 20歳ばかり年少の和泉式部の最期は不明、墓所についても岩手県から佐賀県まで全国各地に7ヶ所以上存在している。

 

 

以下、現地案内板より

 

伝 和泉式部の墓 市指定史跡

 

 和泉式部の墓と伝えられる五輪塔で残っているのは花崗岩製の塔身と一石彫成の請花・宝珠だけであるが、完全であれば総高225cmの比較的大型の五輪塔であったと考えられる。

 五輪塔として整った鎌倉時代の特徴を示し、端正な全容がしのばれる。おそらく鎌倉時代後期の造立であろう。

 和泉式部は平安時代の有名な歌人で、和泉守橘道貞に嫁いだことから、この名がつけられた。道貞と離別後、藤原保昌と再婚し、保昌が摂津国河辺郡平井(現宝塚市)の人であったことから、この地に供養塔が建てられたのであろう。

 和泉式部の墓や供養塔を伝える石塔は各地にあるが、これは女性の遊行聖が和泉式部の名で各地を回り、信仰を広めたことに由来するものと考えられる。

 式部の歌の中で、伊丹に関係があるのは、次のただ一首である。

  津の国の こや(昆陽)とも人を いふへきに ひまこそなけれ 芦の八重葺

 

伊丹市教育委員会

 

 

市指定史跡 辻の碑(ツジノイシブミ)1基

 

 ここは西国街道と多田街道が交差する、いわゆる「辻」といわれた場所で、そこに置かれた道標が「辻の碑」です。碑は自然石に銘文を刻んだもので、高さ92cm、幅76cm、鋭角な部分を上にして据えられています。現在では表面の下部がはがれ落ちていますが、上部に1行「従東寺拾里」(拾里は約40km)の5文字が残っています。

 江戸期の文献『摂津名所図会』(1798年刊行)には、この辻が摂津国東端の関戸、西端の須磨、北端の天王、南端の大小路からそれぞれ7里(約28km)の距離にあることが刻まれていたとあり、この地が摂津国の中央に位置していたことがわかります。碑が建てられた年代は明らかではありませんが、当時すでに下方の文字が読み取ることができなかったと記されています。

 碑文にあった地名は現在では次の通りです。

 

東寺:「京師の東寺」(「摂津名所図会」記述、以下同)京都・東寺(教王護国寺)

関戸:「摂城の堺 山崎関戸院」大阪府島本町にある関大明神社

須磨:「八田部 須磨里」神戸市の須磨

天王:「有馬郡摂丹の堺 母子村の北 天王嶺」三田市母子字天王の北方にある峠

大小路:「摂泉の堺 住吉郡堺津大小路」堺市の大小路

 

1997(平成9)10月製作