摂津 打出陣屋/阿保親王塚古墳/阿保山親王寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①阿保親王塚古墳②古墳案内板③打出陣屋周辺現状図④打出陣屋跡⑤阿保山親王寺

 

訪問日:2023年2月

 

所在地:兵庫県芦屋市

 

 阿保親王塚古墳は案内板の通り4世紀の築造で、阿保親王(792-842)の墓ではない。近隣に阿保親王の別邸があった(阿保山親王寺の地か)とされることから誤り伝えられたものと思われる。

 

 現在の阿保親王塚古墳は江戸時代に阿保親王の後裔を称する長州藩毛利氏によって整備された。その古墳の東方に文久元年(1861)海岸防備を命じられた長州藩により打出陣屋が築造された。

 

 早くも文久2年(1862)には久留米藩ついで龍野藩に、さらに元治元年(1864)安濃津藩、慶応元年(1865)加賀大聖寺藩、慶応2年(1866)伊予大洲藩と警備が交代した。

 

 慶応3年(1867)10月14日、薩摩藩・長州藩は討幕の密勅を受け、11月29日には大洲藩の協力を得て長州藩兵1千人余が隠密に打出浜に上陸し親王寺(打出陣屋とも)に着陣した。

 

 同年12月7日(西暦1868年1月1日)の兵庫開港を控え、旧幕府は生麦事件を教訓に外国人と大名行列の衝突を避けるため、西国街道の迂回路「徳川道」を設け、同日開通した。

 

 慶応4年(1868)1月3日に鳥羽・伏見の戦いが勃発、明治新政府は旧幕府方の尼崎藩に備え、打出陣屋を出陣した大洲藩に代えて備前藩に摂津西宮の警備を命じ、1月5日、備前藩兵2000余が出陣する。

 

 そのうち、家老・日置帯刀忠尚率いる480兵は陸路で打出陣屋を目指し、兵庫で「徳川道」を通らず、西国街道を進軍した。1月11日、三宮神社近くでフランス人水平2人がこの隊列を横切ろうとした。

 

 日置の家臣・滝善三郎正信が槍で制止しようとするが言葉が通じず、強引に横切ろうとした水兵に軽傷を負わせたことから銃撃戦に発展する。これは後に神戸事件と呼ばれている。

 

 外国列強軍艦の砲撃も予測されたためか、日置らは摩耶山を越え、唐櫃村を経由して、12日早朝に打出陣屋に到着した。また、打出に残っていた一部の長州藩兵が事態収拾のため神戸に派遣された。

 

 日置も東奔西走したが、新政府も外国列強の要求を受けざるを得ず、滝が罪を一身に背負い、2月9日に6ヶ国の外国人の立ち合いのもと切腹し、日置は謹慎となった。

 

 廃藩後、日置は宮内省に技芸官として出仕した。大正7年(1918)90歳で死去している。甥の健太郎が養子となり、明治39年(1906)男爵を授かっている。

 

 

以下、現地案内板より

 

阿保親王塚古墳(あぼしんのうづか こふん)

 

 阿保親王(792~842)は平安時代の皇族で、歌人として有名な在原業平の父でもある。

 古墳は、古墳時代前期(4世紀)に築造されたもので、現状では直径約36m、高さ約3mの円墳を方形の濠が囲む。これは江戸時代に阿保親王の子孫を称する長州藩(山口県)毛利氏が大改修を行なった後の姿である。改修の際に出土したとされる4面の銅鏡が親王寺(打出町)の寺宝として伝えられており、芦屋市指定文化財に指定されている。