播磨 伊川城(太山寺城) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①主郭②岩山③堀切と土橋④堀切⑤竪堀⑥遠望(左の山)

 

訪問日:2023年2月

 

所在地:神戸市西区

 

 正平6年(観応2・1351)2月17日の摂津打出浜の戦いで、足利尊氏や高師直・師泰兄弟は南朝に降った足利直義に敗れ、2月20日に和議が成立し、2月26日に高兄弟は直義派に殺害された。

 

 政務に復帰した直義だったが、まもなく尊氏派との対立が再燃し、3月30日には直義派の斎藤利泰が殺害され、5月4日には直義派の急先鋒・桃井直常が襲撃されて辛くも逃れるという事件が起こる。

 

 さらに7月、尊氏は近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐が南朝と通じて離反したとして、尊氏は近江へ、嫡男の足利義詮は播磨に出兵し、京都の直義を挟撃する態勢を整えた。

 

 不利を悟った直義は8月1日に自派の武将らとともに京都を脱出し、北陸さらに鎌倉に逃れた。そして今度は尊氏が直義と南朝の分断を図って南朝に和議を提案し、10月24日に南朝に降伏する。

 

 これにより尊氏は南朝から直義と養子の九州探題・足利直冬(尊氏の庶子)追討の綸旨を得る。11月7日、北朝の崇光天皇と皇太子・直仁親王は廃され、元号は南朝の正平に統一された(正平一統)。

 

 このような情勢の中、播磨国人・後藤基景の軍忠状によると、基景は興良親王(護良親王の王子)を推戴する赤松則祐に属して同年9月12日、直義派の藤原範仲が守る伊川城にて戦った。

 

 この伊川城は太山寺城のことといわれている。さらに9月26日には須磨城(松岡城か)、28日には神呪寺(西宮市)、29日には坂根(川西市)稲野(伊丹市)で直義派と戦った。

 

 伊川城を守った藤原範仲は熱田大宮司・藤原季範(1090-1155)の子孫であろう。季範の娘・由良御前は源頼朝の母、養女(孫娘)は足利氏の祖・足利義康に嫁いで2代・足利義兼を産んでいる。

 

 また、後藤基景は鎮守府将軍・藤原利仁の玄孫で、備後守となり後藤氏を名乗った公則の裔で、基景の7代孫が慶長20年(1615)大坂の陣で討死した後藤又兵衛基次であるという。