訪問日:2023年2月
所在地:神戸市西区
藤原式家の祖・藤原宇合(うまかい)は持統天皇8年(694)藤原不比等の3男として生まれた。母は蘇我媼子(馬子の孫である大紫・右大臣の蘇我連子の娘)とされている。
同母兄に14歳年長の武智麻呂と13歳年長の房前、1歳年少の異母弟に麻呂、異母姉に宮子(文武天皇夫人・聖武天皇の母)と長娥子(長屋王妾)、異母妹に光明子(聖武天皇皇后)らがいる。
初名・馬養、霊亀2年(716)遣唐副使に任ぜられて従五位下に叙爵、「播州太山寺縁起」によると、この年に馬養が太山寺の堂塔伽藍を建立したと伝わる。
霊亀3年(717)入唐し10月に長安に至る。養老2年(718)10月、九州に帰国して正五位下、養老3年(719)正月、副使の功により正五位上に昇叙、この間に宇合に改名した。
同年、常陸守として安房・上総・下総の按察使に任ぜられる。養老4年(720)父が薨去、養老5年(721)長屋王が従二位・右大臣に任ぜられ政権を握る。4兄弟も揃って昇叙、宇合は正四位上に昇叙する。
その後、式部卿に任ぜられ、神亀元年(724)聖武天皇が即位、同じころ蝦夷で反乱が起こると持節大将軍に任ぜられて遠征し、功により神亀2年(725)従三位に昇叙、勲二等の叙勲を受ける。
神亀3年(726)式部卿に加えて知造難波宮事を兼務、神亀6年(729)長屋王の変が発生すると、六衛府の兵を率いて長屋王邸を包囲、4兄弟の政敵である長屋王を自殺に追い込む。
天平3年(731)麻呂とともに参議に昇進、4兄弟が揃って議政官となり、藤原四子政権が確立する。同年、畿内副惣管に任ぜられる。畿内大惣管は天武天皇皇子・新田部親王(外祖父は藤原鎌足)であった。
天平4年(732)四子政権は軍拡路線に転じ、宇合は西海道節度使に任ぜられて九州に赴任、「式」と呼ばれる軍制を整備し、後世にまで引き継がれた。天平6年(734)には正三位に昇叙する。
しかし、天平9年(737)天然痘の大流行により、4月に房前(57)が、7月に麻呂(43)武智麻呂(58)が斃れ、8月、ついに宇合(44)も斃れ、四子政権はあっけなく崩壊した。
長男の大宰少弐・藤原広嗣は天平12年(740)九州で反乱を起こすも敗れて処刑される。このため次男の宿奈麻呂も伊豆に流罪となり、2年後に赦された後も式家は低迷が続いた。
天平宝字8年(764)南家の藤原仲麻呂が反乱を起こして敗死すると復権し、神護景雲4年(770)称徳天皇が崩御すると、弟の百川や藤原永手(北家)とともに光仁天皇擁立に尽力する。
同年、宿奈麻呂は良継と改名、翌年の永手の死後は藤原一門の中心的存在となった。宝亀8年(777)薨去するが、娘の乙牟漏は桓武天皇の皇后となり、平城天皇・嵯峨天皇の生母となった。
以下、現地案内板より
太山寺本堂(国宝)
指定年月日 昭和30年6月22日
この本堂は、神戸市内の建造物の中で唯一の国宝に指定されている建物です。
弘安8年(1285)2月に火災で焼失しましたが、1300年頃には再建されたものと思われます。
太い大きな柱、力強い木組み、しかも簡素な外観は古い建築様式を伝えるとともに、広く大きな建物は寺の格式の高いことを示しています。
内部は御本尊の薬師如来を安置する内陣と礼拝する外陣に区切られ、密教寺院の本堂形式になっています。
外部には蔀戸が用いられており、上半分は外側に釣り上げ、下半分は取り外せます。
昭和39年に解体修理を行ったので、鮮やかな色になっています。
平成4年3月 神戸市教育委員会
県指定文化財 太山寺三重塔
指定年月日 平成元年3月31日
所有者・管理者 太山寺
現在のこの塔は、心柱の墨書銘から貞享5年4月(1688)に再建されたものである。各層の屋根がほぼ同じ幅のまま立ち上がる逓減率(屋根幅の減率)の小さいものであり、重厚感のある安定した造りである。江戸時代中期のものとしては、中世以来の古い様式を保った塔である。
初層内部には四天柱をたて、天上などには極彩色の装飾が施されている。中には、本尊の金剛界大日如来と四天王が祭られている。特に仏壇及び高欄は室町時代の形式に類似するが、前身の塔の再利用か、貞享年間に旧形式を模して新造したものかは、現状では判断できない。
神戸市教育委員会 平成31年3月
太山寺仁王門
重要文化財(国指定 1913年)
三間一戸八脚門・入母屋造・本瓦葺
太山寺は、鎌倉時代から室町時代にかけて隆盛を誇った天台宗の名刹です。播州太山寺縁起によれば、藤原鎌足の子、定恵和尚が開基し、孫の藤原宇合によって霊亀2年(716年)に創建されたと伝えられています。
太山寺には仁王門や国宝の本堂といった建物や、国の名勝安養院庭園の他、多くの指定文化財や宝物が伝えられています。また周囲には江戸時代の陽明学者熊沢蕃山の閑居跡や石堂丸の伝説をはじめ、その他多くの史跡があり、仁王門そばに奉られた切り株は、カンテウノ松またはイボ松と呼ばれ、親しまれてきました。
この仁王門は他所にあったものを現在の場所に移築したもので、建築当初は三間一戸二層の堂々たる門でしたが、移築の際に上層部を撤去し、軒回りも縮小して現在の形になっていることが、昭和28年の解体修理工事で確認されました。木鼻などから、移築は室町時代後期と考えられ、創建年代は不詳ながら、蟇股や組物から鎌倉時代末期まで遡ると推定されます。
中央間を開放して、両脇間には正面と内側に金剛柵を廻し、その上に菱欄間をつけて仁王像を納めています。向かって左側の脇間には、修理の際に発見された古材を基に当初の三手先の組物と軒まわりを復原しています。
平成9年3月 神戸市