摂津 在原業平館(阿保親王塚) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①業平館跡

イメージ 2②阿保親王塚古墳

 

訪問日:2011年7月

 

所在地:兵庫県芦屋市

 

 日本城郭大系に「奥津城」として阿保親王・在原業平の居館があったとの記載があった。奥津城(奥都城・おくつき)とは神道におけるお墓のことで普通名詞であるが、居館があったとのことなので「在原業平館」とした。

 

 阿保親王は延暦11年(792)平城天皇(当時は皇太子)の第一皇子として誕生する。天皇は大同4年(809)同母弟の峨嵯天皇に譲位し、阿保親王の異母弟・高岳親王が皇太子となる。

 

 弘仁元年(810)古都・平城京の平城上皇と嵯峨天皇の対立が薬子の変に発展し、その結果、上皇は出家、皇太子は廃され、阿保親王も連座して太宰権帥として九州に下り、弘仁15年(824)父の死後に赦されて京都に帰還し、その後は三品として従弟の仁明天皇の下で弾正尹などを歴任した。

 

 時の権力者・藤原良房は妹が産んだ仁明天皇の皇子・道康親王(後の文徳天皇)の即位を望んでいたが、承和9年(842)嵯峨上皇が重病となると、皇太子・恒貞親王の身を案じた伴健岑・橘逸勢が皇太子を東国に移す計画を阿保親王に相談する。

 

 阿保親王はこれを檀林皇太后に上告し、皇太后から良房に、そして仁明天皇へと上告され、嵯峨上皇の死後、健岑・逸勢は逮捕され、皇太子は廃された。この事件は「承和の変」と呼ばれ、藤原氏による最初の他氏排斥事件と位置づけられている。

 

 阿保親王は事件の3ヶ月後に51歳で急死、親王の真意は不明だが、自殺とも考えられている。行平・業平といった親王の子息は天長3年(826)臣籍降下され、在原朝臣姓を賜っている。

 

 業平は六歌仙のひとりで、伊勢物語の主人公「在五中将」のモデルといわれている。

 

 

以下、現地案内板より

 

阿保親王塚

 

 平城天皇の皇子、阿保親王(西暦792~842)がまつられており、親王は深く打出浜の眺望を愛で、ここに別邸を営んで風月を友とせられたという。
 周囲350mの陵域は、旧打出村の自然美を伝え、塚は古代の円墳で、径約36m、高さ3mあり周壕をもつ。伊勢物語「芦屋の段」でゆかりのある在原業平は親王の御子である。拝所の正面にある四対の石燈籠(一対は阪神大震災により滅失)は長州藩主毛利候の寄進といわれる。
 親王塚は、現在宮内庁で管理されており、毎年12月の命日には、正辰祭が行われている。

 

芦屋市・芦屋市観光協会