播磨 三日月陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①石垣と濠(整備前)

イメージ 2②石垣と濠(整備前)

イメージ 3③旧演武場跡の石垣

イメージ 4④復興櫓(整備中)

イメージ 5⑤復興櫓(整備中)

イメージ 6⑥案内図

 

訪問日:2000年5月(①②③) 2003年10月(④⑤)

 

所在地:兵庫県佐用郡佐用町(旧佐用郡三日月町)

 

 津山藩18万石の初代藩主・森忠政の後を継いだ養子(外孫)の森長継は実弟の関長政に18700石を分与して支藩・宮川藩が成立した。立藩したのは寛永11年(1634)・14年・承応元年(1652)と諸説ある。

 

 長継の嫡男・忠継は延宝2年(1674)父に先立ち亡くなったが、その子長成が4歳と幼少であったため、3男・長武が3代藩主となった。延宝4年(1676)5男・長俊に1万5千石が分与され、津山新田藩(幕府公認は貞享元年・1684)が成立した。

 

 長武は貞享3年(1686)長成に家督を譲って隠居するが、元禄9年(1696)に長武が、翌元禄10年には長成が27歳でともに実子なく亡くなってしまう。

 

 長継は実弟・関衆之の養子となっていた9男・衆利を呼び戻して後継とすることを幕府に願い出て承諾を得た。そして衆利は継承挨拶のために江戸へ出府の途につく。

 

 しかし、その途上の伊勢国桑名付近に滞在中に幕政を批判して発狂、桑名藩により幕府に詳細が報告され、森氏は改易となる。

 

 発狂の理由は衆利が相続前の元禄8年(1695)生類憐みの令により武蔵国児玉郡中野村の犬小屋の普請奉行に任ぜられたが、そこで浪人たちが大量の犬たちを殺害する事件を起こし、管理責任を問われて衆利の家臣・若林平内が切腹したことによるという。

 

 88歳になっていた長継には新たに2万石が与えられ、備中西江原藩として存続が許され、長継の6男で宮川藩2代・関長治は備中新見藩1万8千石に移され、津山新田藩の長俊は播磨三日月藩1万5千石に移された。

 

 翌元禄11年(1698)長継が亡くなり、8男・長直が相続した。長直は宝永3年(1706)浅野内匠頭長矩が改易された後(間に永井尚敬が5年)の播磨赤穂藩2万石に移り、以降は新見藩・三日月藩とともに明治まで存続した。

 

 

以下、現地案内板より

 

三日月藩陣屋跡

 

 元禄10年(1697)津山藩森家改易の後、分家対馬守長俊が作州から移封され三日月藩が成立した。
 郡内唯一の藩として、佐用郡40ヶ村、揖保郡8ヶ村、宍粟郡18ヶ村で高1万5千石を領した。
 陣屋は、藩主居館を中心に乃伊野全体に約300を数える藩士の屋敷が階層構成を成し、藩主の居館と家臣団の居住区とは門、堀、塀、柵などで、陣屋町全体も丘陵や河川などで周辺地域とは隔てられていた。                       
所有者・管理者  三日月町