大和 平城宮 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①朱雀門

イメージ 2②朱雀門

イメージ 3③復元大極殿(第1次)

イメージ 4④大極殿跡(第二次)

イメージ 5⑤大極殿カラ朝堂院を

イメージ 6⑥復元宮内省建物

 

訪問日:2009年11月

 

所在地:奈良県奈良市

 

 平城天皇は宝亀5年(774)桓武天皇の第一皇子として生まれる。延暦4年(785)藤原種継が長岡京の造営監督中に暗殺されるという事件が起き、叔父の皇太弟・早良親王が流罪となり、立太子される。

 

 皇太子時代、種継の孫娘が東宮宣旨として仕えると、その母の藤原薬子と不倫関係となり、桓武天皇の逆鱗に触れ、薬子は東宮から追放される。

 

 大同元年(806)父帝の崩御により即位すると薬子を呼び戻して典侍とし、夫の藤原縄主を大宰帥として九州に遠ざける。そして薬子とその兄・藤原仲成が政治を専横するようになる。

 

 しかし、病となった平城天皇は早良親王の祟りを恐れ、薬子らの反対を押し切って大同4年(809)同母弟・嵯峨天皇に譲位し、旧都平城京に移る。これにより嵯峨天皇の平安京と平城上皇の平城京の二朝が並び立つこととなった。

 

 薬子と仲成は平城上皇の復位を狙って平城京への遷都を謀ったため、二朝の対立が決定的なものとなり、大同5年(810)上皇は平城京遷都の詔勅を発する。

 

 天皇はこれを拒否して平安京にいた仲成を捕らえ、薬子の官位を剥奪し罪を問うた。上皇は挙兵を決意して薬子とともに東国へ向った。

 

 これを知った天皇は坂上田村麻呂に上皇の東向阻止を命じ、上皇は大和から出ることもできず、敵わぬと悟って平城京に戻り、剃髪した。そして薬子は毒を服んで自害した。

 

 これに先立ち、仲成は射殺されたが、この後保元元年(1156)源為義が保元の乱に敗れて処刑されるまでの346年間、平安時代の政権が畿内で死刑を執行することはなかった。

 

 上皇の皇子・高岳親王は皇太子を廃され、天皇らの異母弟・大伴親王(淳和天皇)が立てられた。上皇はその後も平城京に留まり、太上天皇として天皇の朝覲行幸も受けている。弘仁15年(824)崩御、51歳。