摂津 福原京 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①楠・荒田町遺跡

イメージ 2②二重壕跡

イメージ 3③遺跡位置図

イメージ 4④清盛塚

イメージ 5⑤雪見御所

イメージ 6⑥関連マップ

 

訪問日:2010年7月(①②③⑥) 2010年12月(④) 2012年1月(⑤)

 

所在地:兵庫県中央区・兵庫区

 

 高倉天皇(諱は憲仁)は応保元年(1161)後白河上皇(当時35)の7男で、母は平清盛の後室・平時子の異母妹の平滋子(建春門院)。当時上皇は第一皇子の二条天皇(当時19)と対立して院政停止状態にあり、滋子の異母兄・平時忠(平家にあらずんば、、発言の人)ら院政派の面々は生まれたばかりの皇子を立太子しようとして天皇から解官され、さらに翌年、時忠は出雲に流された。この時清盛は天皇を支持している。

 

 永万元年(1165)二条天皇が崩御(享年23)すると、2歳(生後7ヶ月)の皇子・六条天皇が即位するが、時忠はすぐに召喚され、翌仁安元年(1166)3歳年長の叔父である憲仁親王が皇太子に立てられた。

 

 六条天皇は仁安3年(1168)わずか5歳(満3歳)で退位させられ、8歳の憲仁親王が即位する(高倉天皇)。当然、後白河上皇と清盛の意思が働いており、上皇は院政を開始した。(六条天皇は安元2年・1176に13歳で病没)

 

 承安2年(1172)高倉天皇(当時12)は清盛の娘で従妹にあたる平徳子(建礼門院)を中宮に迎える。しばらくは平穏であったが、治承元年(1177)鹿ケ谷事件が発覚し、父である後白河法皇と舅・清盛の関係が悪化する。

 

 治承2年(1178)徳子が第一皇子・言仁親王(安徳天皇)を出産し、清盛は法皇に迫り、同年中に皇太子となった。しかし、両者の対立は益々深まり、治承3年(1179)清盛の長男・重盛の死をきっかけに清盛は福原から大軍を率いてクーデターを決行する。

 

 法皇の院政は停止されて幽閉され、清盛を背景とする高倉天皇の親政が開始された。翌治承4年(1180)には3歳の安徳天皇に皇位を譲って院政を敷き、同年6月には後白河法皇・高倉上皇・安徳天皇が揃って福原に行幸する。

 

 清盛はそのまま福原を皇居とするつもりだったが、高倉上皇は平安京は放棄せず、福原は離宮として内裏や八省は必要ないと主張した。清盛も当面は内裏は移さないとして清盛私邸を行宮として提供した。

 

 同年8月源頼朝が挙兵したこともあり、11月に京都に還幸、しかし高倉上皇はその直後に病に斃れ、翌治承5年(1181)1月に21歳で崩御した。

 

 

以下、現地案内板より

 

楠・荒田町遺跡(神戸大学医学部附属病院立体駐車場内)
 ―掘り出された平氏の館―

 

福原京とは

 

 平安時代の終わり頃、日宋貿易の舞台となっていた港「大和田泊(おおわだのとまり)」を見下ろす福原の地に、平氏一門の邸宅群が営まれていました。その贅を尽くした造作の様子は、当時の紀行文『高倉院厳島御幸記』などに描かれています。
 治承4(1180)年6月、平清盛はついに安徳天皇・後白河法皇・高倉上皇を奉じての遷都を断行し、新しい都造りに着手、ところが計画は半年足らずで挫折し、新京の建設は夢と消えた、と言われます。後世になって、その幻の都を「福原京」と呼ぶようになりました。
 福原京の実態はほとんどわかっていませんが、かつて兵庫区雪御所(ゆきのごしょ)町で瓦や土器が出土した他、兵庫区祇園(ぎおん)遺跡の発掘調査で庭園遺構が見つかるなど、断片的な手がかりをつかみ始めているところです。

 

楠・荒田町遺跡

 

 神戸大学医学部附属病院のある神戸市中央区楠町から兵庫区荒田町にかけての範囲に広がっています。『平家物語』には、「頼盛の山庄あら田」とあり、200メートル西の荒田八幡神社が清盛の弟である大納言頼盛の館跡伝承地であるところから、福原京(福原行宮)の有力な候補地の一つとなっています。
 昭和56・57年に病院構内で神戸大学が行った発掘調査で、平安時代の二本並行する壕の一部と大型の建物跡が発見され、福原京に関係する遺跡ではないかと注目を集めました。
 その後平成15年に病院の立体駐車場建設に伴い、兵庫県教育委員会が調査した結果、壕の続きと特異な建物跡が見つかり、重要な遺跡であることが裏付けられました。

 

特異な掘立柱建物

 

 見つかった建物跡は東西3.6メートル×南北2.7メートルの大きさで、一辺1メートルの方形柱穴の底に加工した礎盤石(そばんせき)を据え、その上に立てた柱で、相当の重量物を支えていたものと考えられます。その当時ではあまり類例のない構造で、特に梁(はり)の間隔が一間半もあるような平安時代の建物というと、武士の館に設けられた櫓(やぐら)台のような建築物の可能性があります。

 

二重の壕

 

 建物跡の南に二本の壕が東西39メートルにわたって見つかりました。北側の壕は幅約2.7メートル深さ約1.7メートルの規模で、断面がV字状の薬研壕(やげんぼり)と呼ばれる形です。一方、南側の壕は幅約1.8メートル、深さ約1.6メートルで、断面形がU字状をした箱壕となっています。
 壕からは12世紀後半の京都系の土師器皿や、中国から輸入した白磁・青磁が出土し、平安京-福原―宋を結ぶ物流の一端が見られます。
 壕の評価については、防御の機能を重視する説と、屋敷を区画する区画溝だとする説の二つが出されています。二本の壕についても二重にめぐらされた壕と見る考えと、北の壕は屋敷を囲むが、南の壕は福原京の都市を区画する溝で、それがたまたまこの地点で並行しているのでは、とする見解が出されています。時代背景からも見つかった遺構は平氏一門の邸宅跡である可能性が高いといえます。中でも「笠懸・流鏑馬(かさがけ・やぶさめ)」を見物したというほど広壮な頼盛邸関連の施設なら、条件に適うのではないでしょうか。
 歴史上有名な福原遷都も、その存在を今に伝える遺構はほとんど残っていません。そこで神戸大学と兵庫県教育委員会は保存協議を進め、遺構を傷つけないよう砂で埋め戻し、駐車場の地下1~2メートル深さに、保存しています。

 

国立大学法人神戸大学 兵庫県教育委員会

 

 

清盛塚

 

 清盛塚のことは延宝8年(1680)の「福原びんかがみ」に北條貞時が建立したと記されている。元禄5年(1692)の「兵庫津寺社改帳」には清盛石塔の明細と、敷地13間半に、36間半と記されてあり、江戸初期より人口に伝承されていたことは明らかである。
 大正11年頃市電松原線の道路拡張工事でもとの清盛塚の地は、移転問題が起り論議が紛糾したが、結局北東へ11米(現在地)へ移転と定まり、翌年9月供養して、10月塔を解体、地下を調べた結果、墳墓でない事が確認された。塔の台石には弘安9年(1286)2月刻銘があり、鎌倉期(相輪は後補)の優秀な石塔で、高さ8メートル50センチ、初層方145センチ高さ56センチ、最上層方88センチ高さ42センチと実測されている。
 土地では清盛公を兵庫の大恩人と敬い、大正になってから清盛講というのが出来て、毎年盛大な供養をしていた。昭和45年10月清盛公の銅像(柳原義達作)が建てられた。
 塚は現在、神戸市の管理になっている。

 

昭和63年11月  神戸市 明親校区自治会連合会 岡方協議会

 

 

琵琶塚

 

 琵琶塚は以前、清盛塚と小道を挟んで北西にあった。もとは前方後円式の古墳であって、その形から琵琶塚と呼ばれていた。
『平家物語』にみえる琵琶の名人、平経正(清盛の弟、経盛の長男で経俊、敦盛の兄)に結び付けて、琵琶塚つまり、経正の塚と言われる様になった事は延宝8年(1680)「福原びんかがみ」に記されている。
 明治35年有志が、塚の周辺に大石を積んだ上に大きな自然石に「琵琶塚」と彫って建てたが大正12年市電松原線がつき、道路拡張のとき清盛塚とともに現地に移転した。

 

昭和63年11月  神戸市 明親校区自治会連合会 岡方協議会