丹波 篠村八幡宮 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①本殿と旗あげの地碑②拝殿③矢塚④鳥居⑤旗立楊と旧山陰街道⑥ツブラジイ

 

訪問日:2023年2月

 

所在地:京都府亀岡市

 

 足利尊氏・直義兄弟の父である足利宗家7代・足利貞氏と正室である釈迦堂殿(北条氏一門・金沢顕時の娘)との間に嫡男の足利高義がいたが、文保元年(1317)に21歳で早世している。

 

 文永3年(1266)に3歳で鎌倉幕府7代将軍に就任した惟康王は、文永7年(1270)執権・北条時宗の意向で臣籍降下し、弘安10年(1287)に親王宣下されるまで源惟康と名乗っていた。

 

 初代将軍・源頼朝になぞらえた蒙古襲来対策としての源氏将軍の復活であったが、同時に武家の棟梁は清和源氏が相応しいとの観念が高揚したという説がある。

 

 時宗の子・北条貞時は貞氏の元服に際し、源氏嫡流を公認した上で北条氏への忠誠を求めたという。尊氏・直義兄弟もまた貞時の子・北条高時の偏諱を受け、高氏・高国と名乗っていた。

 

 高氏・高国兄弟の母・上杉清子は貞氏の側室ではあるが、丹波国上杉荘(現・京都府綾部市)を本貫とする藤原氏勧修寺流・上杉頼重の娘で、兄弟は丹波に縁故があった。

 

 高義には遺児(安芸守某)があり、貞氏はその相続を望んでいたというが、元弘元年(元徳3・1331)貞氏が死去すると、遺児も14歳以上ではあったはずだが、27歳の高氏が家督を継いだ。

 

 同年、後醍醐天皇が挙兵(元弘の乱)、派兵を命じられた高氏は父の喪中を理由に辞退したが許されなかった。元弘3年(正慶2・1333)隠岐を脱出した後醍醐天皇が再挙する。

 

 再び派兵を命じられた高氏(29歳)は、正室・赤橋登子(28歳、最後の執権・赤橋守時の妹)や嫡男・千寿王(4歳、のちの足利義詮)らを鎌倉に残して出陣する。

 

 高氏は篠村八幡宮で反幕府の兵を挙げる。登子と千寿王は鎌倉脱出に成功したが、庶子の竹若丸(10歳?)は山伏姿で脱出を図ったものの、北条氏の刺客の手にかかり命を落とした。

 

 六波羅探題を滅ぼした高氏は、後醍醐天皇(尊治)の偏諱を受けて尊氏と改名し、高国(27歳)も忠義(のち直義)と改名し、諱名においても北条氏から訣別した。

 

 

以下、現地案内板より

 

篠村八幡宮由緒

 

一、主祭神 誉田別命(応神天皇)、仲哀天皇、神功皇后

一、摂末社 乾疫神社、稲荷神社、祖霊社、祓戸社、小宮社四社

一、例大祭 9月15日放生会、10月25日秋季例大祭、1月19日乾疫神社例大祭

一、由緒 由緒書きや本殿棟札によれば、延久3年(1071)後三條天皇の勅宣によって、奥州鎮守府将軍・河内守源頼義が、河内国(大阪府羽曳野市)応神天皇陵に鎮座の誉田八幡宮から御祭神を勧請し創建されたと伝えられる。延久4年5月13日付の源頼義の社領寄進状も現存する。藤原氏によって開かれた篠村の荘園ではあったが何時の頃からか源氏が相伝する所となり、頼義が河内国守となった縁で自身の荘園内の当八幡宮の原初の祠に誉田八幡宮の御分霊を勧請したものであろう。

 源頼義から10代末裔の足利尊氏は、元弘3年(1333)4月29日、当社に戦勝祈願の願文を奉じて10日間滞在の後、首尾よく六波羅探題を滅ぼして建武中興のきっかけを掴んだ。また、後醍醐天皇と決別後の建武3年(1336)1月30日、一旦占拠した京都攻防戦で破れ、2月1日まで当社で敗残の味方の兵を集めるとともに社領を寄進、再起を祈願して九州へ逃れた。敗走後、1ヵ月で九州全土を平定、5月の湊川の合戦で決定的な勝利を得て室町幕府開幕のきっかけを掴んだ。

 尊氏にとって、二度の重大な岐路で当社に祈願を込めて大願が成就していることから、尊氏自身貞和5年(1349)8月10日に当社にお礼に参拝している。尊氏を始め歴代将軍家から多くの荘園の寄進を受け、室町時代を通じて当社は大いに栄え、盛時には社域は東西両村に及んだ。

 後、応仁の乱や明智光秀の丹波平定の戦火によって社殿や社領の多くを損失した。

 寛永年間(1624~43)亀山城主菅沼定秀によって本殿改修がなされ、以来、源姓亀山城主の直轄神社として歴代藩主による庇護を受けた。

 足利尊氏旗挙げの『願文』や『御判御教書』(寄進状)が伝わる。境内には、玉串に添えて奉納の鏑矢を納めた『矢塚』、本営の所在を示す源氏の白旗を掲げた『旗立楊』が残る。

 昭和61年、境内全域が『足利尊氏旗挙げの地』として亀岡市の史跡に指定された。

 

 

篠村八幡宮

 

 元弘3年(1333)、足利高氏は鎌倉幕府討幕の旗挙げに際して源氏復興を願う願文や鏑矢を奉納し、戦勝祈願している。

 また、一説には明智光秀の丹波進攻の際兵火を被ったとされるが、本能寺の変に向かう途上に戦勝祈願したともいわれる。現在の本殿は延宝5年(1677)、丹波亀山藩主松平忠昭が再建するなど歴代亀山城藩主の崇敬を集めた。

 また足利高氏が残した願文や寄進状をはじめ、境内には奉納された矢を収めた「矢塚」や白旗が翻った場所には「旗立て楊」がそびえ、往時が偲ばれる。

 

 

矢塚(亀岡市史跡)

 元弘3年(1333)4月27日、篠村八幡宮に陣を張った足利高氏は29日に戦勝祈願の「願文」を神前で読み上げた。

 高氏が自ら願文に添えて一本の鏑矢(昔の合戦開始の合図として、双方が最初に敵側に射込むうなり音を発する矢)を奉納したところ、弟の直義を始め吉良・石塔・仁木・細川・今河・荒川・高・上杉以下の武将たちが我も我もと上矢を一本づつ奉献して必勝を祈願し、社壇には矢が塚のようにうづ高く積み上げられた(「太平記」)。

この矢を埋納した場所が「矢塚」で、椎の幼木が植えられた。樹齢660年程を経て周囲の椎木程に育った木は、昭和9年の室戸台風で倒れ、現在の椎は2代目。足利尊氏の勝ち戦にあやかるべく、地元の太平洋戦争出征者は椎の倒木から作った肌身守を持参して無事を祈願した。55柱の霊(昭和52年、靖国神社からの御分霊を右手の祖霊社に合祀)を失ったものの、戦勝の八幡神の御加護を得て出征者数に比して戦没者は少なかった。 

 矢塚の石碑は、元禄15年(1702)8月15日に奉納されたものである。

 

 

旗立て楊(亀岡市史跡)

 元弘3年(1333)4月27日に篠村八幡宮一帯に陣を張った足利高氏は、29日にかけて軍勢催促状を髻に結んだ密使を近国はもとより、全国の有力な武将に派遣して参軍を求めた。

 4月29日に社前で戦勝祈願の願文を奉納して旗あげを行って以後、旧山陰街道(横の小道)に面して一際高く聳え立つ楊の木に、足利家の家紋である「二引両」印の入った源氏の大白旗を掲げて高氏のもとに駆け付けてくる武将達に高氏の本営の所在を明らかにした(「梅松論」)。この源氏の大白旗を掲げた楊の木が旗立て楊である。

 5月7日までの間に、久下時重を始め長澤・志宇知・山内・葦田・余田・酒井・波賀野・小山・波々伯部氏等が馳せ参じて高氏の軍勢は2万3千騎となり、5月7日を期して京都に攻め入り、首尾よく六波羅探題を滅亡させた(「太平記」)。

 柳とは樹種が異なる。楊の寿命は百年程度しかないが、挿し木により容易に活着する。この楊は昭和の初期に挿し木したもので、足利高氏の時代より6・7代を経て引き継がれてきたものである。