大和 高取城② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①天守台②天守台より本丸③新櫓・太鼓櫓を望む④十五間多門跡⑤国見櫓跡より⑥二の門跡

 

訪問日:2020年3月

 

所在地:奈良県高市郡高取町

 

 植村氏は美濃源氏・土岐氏一族と称し、三河松平氏に仕えた植村氏明は天文4年(1535)松平清康が殺害された森山崩れで犯人の阿部正豊を討ち取った。

 

 また、天文18年(1549)には清康の子・広忠(徳川家康の父)が殺害された時も犯人の岩松八弥を討ち取ったと伝えられる(異説あり)。

 

 氏明の孫・家次は家康の長男・信康の小姓であったが、天正7年(1579)信康切腹により13歳で流浪の身となった。

 

 氏明は後に信康の傅役であった榊原清政の推挙で弟の榊原康政に仕え、さらに康政の推挙により再び家康に仕えた。

 

 旧武田家臣の依田信蕃の娘を正室とし、天正17年(1589)嫡男・幸千代が生まれる。家康の関東移封に伴い、家次は上野国に500石を与えられる。

 

 慶長4年(1599)家次が33歳で没して11歳の幸千代が家督を継ぎ、家康の嫡男・徳川秀忠の小姓となって植村家政と名乗る。

 

 家政は慶長19年(1614)大坂冬の陣の功により1500石に加増され、寛永2年(1625)3代将軍・家光付の大番頭となり、5千石となる。

 

 さらに寛永10年(1633)には9千石となり、寛永17年(1640)ついに2万5千石の大名となり、大和高取藩主となった。

 

 慶安3年(1650)家政は62歳で死去、家督は3男の家貞が継いだ。11代・家貴で家政の植村氏の男系は絶えたが、女系子孫の14代・家壺の時に明治維新を迎えた。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 高取城跡

 

 高取城跡は、奈良盆地の南端、標高584mの高取山の山頂を中心に、急峻な山上の地形を巧みに利用して築かれている。何段にも重ねた石垣や喰違い虎口(出入口)、急斜面により守られ、山麓の城下町との比高差は400m以上を測る。

 14世紀前半に土豪越智氏が南朝の呼びかけで築城したのが始まりといわれている。織田信長の一国破城により、天正8年(1580年)に一旦は廃城となるが、天正12年(1584年)の筒井順慶による復興をへて、豊臣秀長の家臣本田氏により天正から慶長の頃(16世紀末~17世紀初頭)に近世城郭として完成した。その後江戸時代に入り、寛永14年(1640年)に譜代の植村氏が入部して、2万5千石の居城とした。以後明治維新まで、植村氏が14代に渡って城主となった。山上に本来の城と家臣の屋敷地を取り込んで、城と城下町の二様相を山城としてまとめた特徴ある形であった。そのため山城としては広大にならざるを得なかった。しかし、平穏な時代には山上の生活は不便なため、藩主をはじめ多くの家臣が山を降り、その結果、城郭と城下町が離れた特異な形態となっている。

 二の門・壺坂口門・吉野口門の内側は「城内」とよばれ、山中のすべての曲輪を含んだ範囲が「郭内」とよばれている。現在は、郭内に建造物は残っていないが、広大な縄張りと堅牢な石垣群が残されており、国史跡に指定されている。

 

指定年月日 昭和28年3月31日

平成23年3月 奈良県教育委員会

 

 

史跡高取城跡 大手道登城案内図

 

この場所には、高取城の「国見櫓」がありました。

国見櫓は城内の北西に張り出した場所にあたり、まさに国見をするのにふさわしい場所です。

ここからは奈良盆地はもとより、気象条件がよければ大阪平野の奥に兵庫県六甲山や滋賀県比叡山まで望むことができます。

また、高取城下町の土佐街道から陽を受けて光る国見櫓台の石垣が白い点として確認できますので、帰り道に探してみてください。

本丸まで残りわずかです。

足元に気をつけて登ってください。

 

ここから本丸まで763m

 壺阪山駅まで4,264m

 

 

 

高取城(1989年)