大和 植村家長屋/子嶋寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①植村家長屋②植村家長屋③植村家長屋④子嶋寺山門⑤同(旧高取城二ノ門)⑥子嶋寺本堂

 

訪問日:2020年2月

 

所在地:奈良県高市郡高取町

 

 植村家保は天保8年(1837)近江膳所藩12代藩主・本多康禎の7男として生まれた。長兄・康融は13代、6兄・康穣は14代膳所藩主。

 

 嘉永6年(1853)高取藩12代藩主・植村家興(大村藩主・大村純昌の11男)が19歳で急死すると、その末期養子として13代藩主となった。

 

 安政2年(1855)桜田門番・竹橋門番、御所造営奉行、文久元年(1861)和田倉門番・馬場先門番などを歴任する。

 

 文久3年(1863)8月17日、尊皇攘夷派浪士の天誅組が大和五條で挙兵し、18日には高取藩に恭順を勧告すると、高取藩はこれに応じた。

 

 しかし同日、御所では八月十八日の政変により、公武合体派が朝廷の実権を掌握、これにより高取藩は態度を変えて兵糧差し出しを拒否する。

 

 26日、中山忠光率いる天誅組が高取城を攻撃するが、200兵程の高取藩はこれを撃退、天誅組は壊滅して五條に敗走した。

 

 さらに同日夜、別働隊を率いていた吉村寅太郎が決死隊を率いて夜襲を試みるが高取藩の斥候隊との遭遇戦で重傷を負い、撤退した。

 

 天誅組は総兵力2万4千の幕府軍の討伐を受けて9月には壊滅、家保はその後、元治元年(1864)大坂加番に任ぜられる。

 

 しかし植村氏は元々尊皇派で、慶応4年(1868)の戊辰戦争で高取藩は明治新政府に与して御所の警備を務めた。

 

 同年閏4月、32歳で養子の家壺(播磨山崎藩主・本多忠鄰の6男)に家督を譲った。明治21年(1888)大和神社(天理市)宮司となる。

 

 明治29年(1896)死去、60歳だった。

 

 

以下、現地案内板より

 

県文化財指定(昭和35年7月28日)

植村家長屋門

 

 植村家長屋門は、文政9年(1826年)の建立で、一重入母屋瓦葺造り、門内の東西に各4室の部屋がある。

江戸時代は、高取藩に仕える中間たちが、それぞれの部屋に住んでいた。

近世武家屋敷表門の遺構を残している貴重な建物である。

当時は城代家老の役宅であったが、現在は旧藩主植村氏の住居となっている。

 

奈良県教育委員会 高取町教育委員会

 

 

旧高取城二の門

年代 慶長年間

 

当門は豊臣秀長の臣本多利之公の建築にかかる。明治維新の際、廃藩と共に高取城拂に際し当寺に移転したるものなり。

旧城原形の儘存するは当門のみ也。