大和 壺阪山 南法華寺(壷阪寺) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①八角円堂・礼堂②礼堂③三重塔④多宝塔と灌頂堂⑤仁王門⑥境内

 

訪問日:2020年3月

 

所在地:奈良県高市郡高取町

 

 南法華寺(壺阪寺)は大宝3年(703)元興寺(現在の飛鳥寺)の僧・弁基上人の開基と伝わる。俗姓は大石村主安麻呂といった。

 

 大石村主は応神天皇の時代に漢人系渡来人で高市郡檜前を賜った阿知使主(東漢氏の祖)が招致した百姓漢人の末裔の一つである。

 

 一方で、その弁基が開基前の大宝元年(701)に朝廷の命令で還俗し、春日倉首の氏姓と老の名を与えられ、追大壱に叙せられたという。

 

 老の娘は藤原四兄弟の次男・房前(藤原北家の祖)の側室となり、慶雲2年(705)頃、その長男・藤原鳥養(早世)を産んだという。

 

 これが正しければ、大石村主安麻呂と称した頃、あるいは出家後に生まれた娘という可能性もある。

 

 老は和銅7年(714)従五位下に叙され、その後常陸介に任ぜられ、『常陸国風土記』の編者候補の一人(他に房前の弟で常陸国司の藤原宇合など)である。

 

 安麻呂=弁基、弁基=春日倉首老は確かだろうが、安麻呂=弁基=春日倉首老はもしかすると違うのかもという気もする。

 

 老は52歳で死去したと伝わるが、生没年は不明である。『万葉集』には弁基として1首、春日倉首老として7首が入集している。

 

 

以下、現地案内板より

 

壷阪寺縁起

 

創建沿革

 壷阪寺(正式寺号は南法華寺)は、大宝3年(703)元興寺(飛鳥寺)の僧弁基(紀)によって創建された。この時代は飛鳥時代から培われた日本人の力が白鳳時代を迎えて都らしい都「藤原京」を創建したときでもあった。壷阪寺所蔵南法華寺古老伝によると弁基上人が、この霊峰にひかれて山中に修行中秘蔵の水晶の壺中に観世音菩薩を感得したのでその壺を坂の上に安置して供養し、壺阪観音を模刻して本尊としたと記されている。壺阪の名の由来でもある。

その後元正天皇ご在位のとき勅願寺となりその折り「南法華寺」の寺号を頂いている。また弁基上人は後に還俗し春日蔵首老と名乗る文化人になり春日倉人の統括者に任命されている。即ち「続日本紀」巻二、大宝元年3月19日の条に、令僧弁紀還俗。代度一人賜姓春日倉名老。授追大壱。とある。南法華寺は一山の総称で古老伝によれば、平安時代に全盛期を迎え金堂、五大堂、灌頂堂等含め36堂60余坊の大伽藍が造営され、清少納言の雙紙にも壺阪、笠置とその偉容がたたえられている。しかし数度の大火で諸堂や僧房が消失し、現在では室町時代に再建されたお堂の一部礼堂、三重塔(共に重要文化財)、八角円堂の建造物を残すのみとなり、山腹の静かなたたずまいの中美しく調和を保ちつつ現存している。壷阪寺は上代より霊刹として尊崇をあつめた寺で、「続日本紀」承和14年12月丙辰(885)の条に定額に列せられたこと、また「三代実録」貞観8年3月5日(859)には転読会を命じられたりして古くから霊験山寺として知られている。

 

観音信仰

 当山は西国三十三所観音霊場の第六番で、御本尊十一面千手観世音(木彫、丈六座像)は、眼病に霊験あらたかな仏として広く信仰され、元正、一条、桓武天皇をはじめとして眼病平癒を祈願する者多く、その霊験は「感霊録」(平安時代)等にも多く記されている。

説話「壺阪霊験記」は、盲目の夫「沢市」の開眼を祈る妻「お里」の純愛が沢市の目を開けさせるという夫婦愛の物語で、明治初年当代三味線の名手団平の妻「千賀女」によって創作され、浄瑠璃の調べにのって演ぜられる人形や歌舞伎の技は世界各地での公演の中で大いなる讃辞を得たとか。