大和 高松塚古墳/キトラ古墳 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①高松塚古墳②高松塚古墳③案内板④キトラ古墳⑤キトラ古墳⑥案内板

 

訪問日:2012年1月(①②③) 2020年3月(④⑤⑥)

 

所在地:奈良県高市郡明日香村

 

 高松塚古墳の被葬者については高市皇子ら天武天皇の皇子説、石上麻呂説、朝鮮半島系王族説などがあり、キトラ古墳には高市皇子説のほか、阿部御主人説、百済王昌成説などがあるようだ。

 

 高市皇子は白雉5年(654)大海人皇子(後の天武天皇)の第1皇子として生まれた。母は筑紫国宗像郡の豪族・胸形徳善の娘の尼子娘。

 

 弟に草壁皇子(662-689・母は後の持統天皇)、大津皇子(663-686・母は大田皇女)、忍壁皇子(?-705・母は宍人擬媛娘)、穂積皇子(?-715・母は蘇我大蕤娘)、長皇子(?-715・母は大江皇女)、弓削皇子(673-699・母同)、舎人親王(676-735・母は新田部皇女)、新田部親王(?-735・母は藤原五百重娘)など。

 

 天武天皇元年(672)の壬申の乱では父より軍事の全てを委ねられたとされ、和蹔(関ヶ原)に布陣し、勝利に貢献した。

 

 天武天皇8年(679)天武天皇、皇后(持統天皇)、草壁、大津、川島皇子(

天智天皇第2皇子)、忍壁、志貴皇子(天智天皇第7皇子)とともに吉野に集い、吉野の盟約が交わされる。

 

 天武天皇14年(685)冠位48階の制が定められると、天武天皇の皇子の中で草壁・大津に次ぐ3番目の浄広弐の位を与えられる。

 

 朱鳥元年(686)天武天皇が崩御、直後に川島の密告により皇子No.2の大津皇子が謀反の罪で自害、持統天皇3年(689)には皇太子・草壁皇子が薨御する。

 

 持統天皇4年(690)皇后であった持統天皇が即位、高市皇子は太政大臣に任ぜられ、皇族・臣下の筆頭として政権を支えた。

 

 持統天皇7年(693)浄広壱に昇進するが、持統天皇10年(696)生年が正しければ43歳で薨御した。

 

 第1王子の長屋王は養老4年(720)より藤原不比等薨去後の政権を主導するが、神亀6年(729)不比等の4人の子の陰謀とされる長屋王の変で自害した。

 

 なお、天平7年(735)に九州から発生した天然痘の大流行では、天平9年(737)その藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)が相次いで亡くなるなど、100-150万人が死亡したという(翌年1月ほぼ終息)。