越前 玄蕃尾城(近江 内中尾城) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①主郭櫓台②主郭北馬出③北郭の土塁と空堀④主郭南馬出と土橋⑤南郭土塁⑥大手虎口土塁

 

訪問日:2020年2月

 

所在地:福井県敦賀市 滋賀県長浜市

 

 佐久間盛政(玄蕃)は天文23年(1554)佐久間盛次(信盛の従兄弟)の長男として生まれた。母は柴田勝家の姉妹。同母弟に安政・柴田勝政・勝之がいる。いずれも勝家の甥ということになる。

 

 身長6尺(182cm)の大男だったと伝わり、永禄11年(1568)観音寺城の戦いで初陣、元亀元年(1570)越前手筒山城攻め、野洲河原の戦い、天正元年(1573)槙島城の戦いなどで功を挙げた。

 

 天正3年(1575)勝家が越前一国を与えられるとその与力となり、天正4年(1576)加賀一向一揆に奪われた大聖寺城の奪還戦、天正5年(1577)には御幸塚砦を築き、南下する上杉謙信に備えた。

 

 天正8年(1580)加賀一向一揆の尾山御坊を攻略し、その跡地に金沢城を築いて城主となり、加賀半国の支配を任されている。

 

 天正9年(1581)には加賀白山城救援に向かい、すでにこれを落とした上杉景勝を破る。天正10年(1582)加賀一向一揆を壊滅させ、門徒300余人を磔刑に処した。

 

 同年の本能寺の変の際には勝家に従い、盛政は上杉方の越中松倉城を攻めていた。勝家は全軍撤退させ、変を知った上杉氏に備えなければならなかった。

 

 天正11年(1583)羽柴秀吉と対立した勝家は北ノ庄城を出陣、勝家が本陣を置いた城は盛政の通称を冠した「玄蕃尾城」と呼ばれた。恐らくそれまでは「内中尾山城」と呼ばれていたのだろう。

 

 賤ヶ岳の戦いで「鬼玄蕃」は中川清秀の砦を急襲し、清秀を討ち取り緒戦を勝利に導いたが、次いで桑山重晴の賤ヶ岳砦の攻略に失敗し、味方の前田利家が突如戦線を離脱したため盛政は孤立してしまう。

 

 戦いは勝家の敗北に終わり、盛政は加賀に落ち延びようとしたが、越前の郷民に捕らえられ、秀吉の前に引き出されると、秀吉は九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと誘ったという。

 

 盛政はこれを固辞し、さらに名誉の切腹を命じられたが、それさえも拒んで京都市中を引き回され、宇治槙島で斬首された。享年30。辞世は「世の中を 廻りも果てぬ 小車は 火宅の門を出づるなりけり」

 

 一人娘の虎姫は後に秀吉の命で清秀の次男・中川秀成に嫁ぎ、嫡子・久盛(豊後岡藩2代藩主)ら7人を産む。秀成は末子を佐久間勝成と名乗らせ盛政の弟・勝之の娘と娶せたが2人に子はできず離縁した。

 

 後に勝之の娘は中川家の家老・中川資重と再婚し、その子が佐久間氏を再興して現在も続く。盛政の血筋としては尾張藩士の虎姫の娘の子が佐久間重行と名乗るが6代で断絶した。

 

 また、重行の子の一人は出羽新庄藩士として現在に至るという。盛政の子孫が英雄・盛政の血を後世に伝えたかった思いが伝わってくる。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡

 玄蕃尾(内中尾山)城跡  文部省

指定年月日 平成11年7月13日

所在地及び地域

福井県敦賀市刀根60号字外ヶ谷5番の1 69号字小唐子6番

滋賀県伊香郡余呉町大字柳ケ瀬字北尾624番の1・634番 字打谷773番 字坂手819番・820番

指定面積 158,772平方メートル

指定理由(説明)

 玄蕃尾(内中尾山)城跡は、滋賀県と福井県境の柳ケ瀬山(内中尾山)山上にある。かつて、この城には賤ヶ岳の合戦(天正11年・1583年)の際、戦国時代の武将である柴田勝家の本陣が置かれたところである。本遺構は、極めて限定された時期の城郭の遺構であることから、中世城郭から近世城郭への過渡期にあたる城郭編年の様式遺跡として重要であること、遺構が良好に遺存していることなどから、史跡に指定して保存を図るものである。

 

平成11年11月1日  敦賀市教育委員会 余呉町教育委員会