近江 虎御前山城② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①主郭(伝信長陣)②主郭を北から③北郭(伝秀吉陣)④北郭の堀切と土塁⑤南郭の堀切⑥伝蜂屋頼孝陣

 

訪問日:2020年2月

 

所在地:滋賀県長浜市

 

 蜂屋頼隆の出自は不明だが、美濃源氏・土岐氏の一族である蜂谷氏の人物である可能性が高い。織田信長と同じ天文3年(1534)生まれとの説がある。

 

 永禄2年(1559)信長の初上洛に随行し、金森長近とともに後をつけてきた斎藤義龍の刺客たちの宿を訪れ、その目的を阻止したという。

 

 永禄11年(1568)には信長の上洛戦に従い、柴田勝家・森可成・坂井政尚とともに先陣として岩成友通の勝龍寺城を攻め功を挙げた。3日後、信長自身が率いる大軍の前に勝龍寺城は降伏した。

 

 その後もこの4人や佐久間信盛・和田惟政といった面々が畿内の政務に携わり、頼隆は織田氏の有力な武将としてその名を知られるようになる。

 

 元亀元年(1570)には浅井長政の小谷城攻めのため、虎御前山城に入った信長は頼隆・勝家・信盛・木下秀吉・丹羽長秀らに命じて小谷城下を焼き払わせた。

 

 元亀4年(1573)頼隆・勝家・長秀・明智光秀は足利義昭方の近江石山城・今堅田城攻めを命じられ、石山城の山岡景友は降伏、頼隆・長秀・光秀が強襲した今堅田城は落城した。

 

 同年、義昭を追放した信長は天正と改元し、再び虎御前山城に布陣、その間の朝倉氏追撃戦では勝家・信盛・長秀・秀吉・滝川一益・稲葉一鉄とともに朝倉勢追撃に遅れを取ったとして信長の叱責を受ける。

 

 天正2年(1574)肥田城主・高野瀬秀隆が越前一向一揆で討死すると、その後を受けて肥田城主となる。同年の蘭奢待切り取り、伊勢長島攻め、天正3年(1575)の越前一向一揆掃討戦にも従った。

 

 さらに天正4年(1576)天王寺の戦い、天正5年(1577)雑賀攻め、天正6年(1578)石山本願寺攻め、織田信忠の播磨出兵、有岡城の戦いにも名を連ねている。

 

 天正7年(1579)高槻城番を務めていた大津長昌が病死すると、その正室(丹羽長秀の妹)を妻に迎え、また子がなかったため長秀の4男・直政を養子とする。

 

 天正8年(1580)本願寺が退去した大坂城に長秀、織田信澄とともに入る。追放された佐久間信盛の後を受けて和泉国を任せられ、天正9年(1581)岸和田城に入る(城主は織田信張か)。

 

 天正9年(1581)の京都御馬揃えでは、長秀に次ぐ二番手を務める。天正10年(1582)四国攻めでは、長秀・信澄とともに総大将・神戸信孝の与力となるが、本能寺の変により出兵は中止となった。

 

 岸和田城にあったため、信澄殺害には関与しなかった。続く山崎の戦いでは長秀とともに大将である信孝に従うが、その後の清洲会議では信孝・柴田勝家と対立した羽柴秀吉に味方している。

 

 天正11年(1583)賤ヶ岳の戦いの後、要地である越前敦賀5万石に移封となる。天正12年(1584)小牧・長久手の戦い、天正13年(1585)富山の役、天正15年(1587)九州征伐にも出陣した。

 

 天正16年(1588)後陽成天皇の聚楽第行幸では従四位・侍従として秀吉の行列に供奉したが、天正17年(1589)死去した。養子・直政は早世しており、蜂屋氏は断絶した。

 

 

以下、現地案内板より

 

虎御前山城

 

 長浜市中野町から湖北町河毛・別所につらなる虎御前山の標高220メートルを最高点とする丘陵上に存在する。この城は浅井氏の小谷城を攻めるため、元亀3年(1572)織田信長が築城した付城(陣城)である。『信長公記』では「当山の景気興ある仕立、おぶただしき御要害見聞に及ばざるの由を以て、各々耳目驚かされ候」と、その景色のよさと普請の頑強さを褒めたたえている。

 本城は翌年9月1日に小谷城が陥落するまで、信長の浅井氏攻めの最前線として使用された。南から多賀貞能・蜂屋頼隆・丹羽長秀・滝川一益・堀秀政・織田信長・木下秀吉・柴田勝家の陣跡など続くが、丹羽陣跡以南は県営のキャンプ場の跡地になっており、その造成により破壊が甚だしい。しかし、滝川陣跡以北は、比較的良好に縄張が残っている。

 山頂に当たる信長陣跡には、南側に外枡形が見られ、秀吉陣跡は堀切・土塁て、段々上の削平面がよく残っている。この秀吉陣跡は、小谷城清水谷との最短地点で、浅井氏攻めの最先鋒であった秀吉の陣所としては納得のいくものである。当地から、小谷城清水谷との距離感を確認することで、小谷城攻めの緊迫感を追体験できる。

 

 

虎御前山城

伝織田信長陣跡

 

信長の陣跡と伝えられる山の最高所に位置する規模の大きな曲輪で北東、西の三方を切り立った崖で防御されている、ここから南東に尾根が伸び、伝信長先兵陣地跡と伝わる曲輪群がある

 

 

虎御前山城

伝木下秀吉陣跡

 

秀吉の陣跡と伝えられる、秀吉は虎御前山城の城番に任ぜられており陣跡も小谷城に近接していることからここが最前線であったと考えられる。三角形の曲輪を中心に小谷城側に土塁を築いた帯状曲輪が設けられている

 

 

虎御前山城跡の礎石復元建物

 

 当地に復元した礎石建物は、小谷山城跡をはじめ太尾山城跡や鎌刃城跡などでも発掘されており、当時の山城においてごく一般的な主要施設であったといえる。復元に用いた礎石は大津市伊香立の生津城(1560年頃)跡で発掘されたものであり、四間四方(一間一メートル)の建物(四メートル四方)であった。

側柱のなかに束柱があり、床張りの高床建物であったことが分かる。このため一部床を復元しそれをベンチとした。前面間近に横堀があり、東には巨大竪堀がある。そして西に琵琶湖と竹生島が遠望でき、北側には堀秀政の陣が認められる。この場所は虎御前山城跡のなかでも要の位置を占めたといえる。

 

2017年(平成29年)10月 虎御前山古墳と中世城郭保全顕彰会

 

 

歴史と伝説の山

 

 虎御前山は標高224mの独立丘陵で八相山ともいう。虎御前山には古墳時代から奈良時代にかけてのものと推定される円墳や前方後円墳の遺構が数多くあり、戦国時代には、この古墳を利用した砦が築かれていた。

 蜂屋頼隆陣が築かれていた「北山古墳」や元亀3年、織田信長が小谷城攻撃のため築いた砦跡があり、堀秀政、木下秀吉、瀧川一益などの諸将も砦を築いていた。

 また八相山には奈良時代天平宝字2年・756孝謙天皇の勅願により大嶽寺十ヶ寺の一つとして成道寺が建立され僧坊十戸があったとされている。この成道寺跡の一部にいま矢合神社が建てられている。