近江 敏満寺城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①A曲輪の土塁•石碑②A曲輪③A曲輪土塁④B曲輪(左)⑤AB曲輪間の堀切⑥西への眺望

 

訪問日:2020年2月

 

所在地:滋賀県犬上郡多賀町

 

 久徳城主の久徳氏は多賀大社の社家であった多賀氏の一族で、久徳実時は六角氏から勢力を拡大する浅井長政に転じ、母を人質に出した。

 

 しかし、実時は六角承禎の調略に応じて永禄2年(1559)六角氏とともに浅井方の高宮頼勝(実時の娘婿だが誘いに応じなかった)の高宮城を攻めた。

 

 長政は実時の母を処刑し、永禄3年(1560)新庄氏・磯野氏に命じて久徳城を攻め、城は落城、実時をはじめ城兵も悉く討死したという。

 

 しかし、実時の弟の宗重や宗頼らは生き残り、六角氏の庇護を受けた。永禄5年(1562)長政は久徳氏に味方をしたとして敏満寺を焼討する。

 

 あるいは実際に宗重らを庇護していたのは敏満寺だったのかもしれない。そして永禄11年(1568)織田信長が六角氏を駆逐する。

 

 宗重は信長に仕え、元亀元年(1570)久徳城3千石を安堵された。同年、頼勝の弟・高宮宗存の攻撃を受けるが撃退し、信長に称賛される。

 

 比叡山焼討の翌年にあたる元亀3年(1572)敏満寺もまた信長に従わなかったとして焼討に遭い、敏満寺は完全に消滅したという。

 

 宗重は織田氏に留まり、天正2年(1574)上司の鎌刃城主・堀秀村が改易され、天正5年(1577)長浜城の羽柴秀吉が播磨に赴くと信長直参となった。

 

 天正10年(1582)山崎の戦いでは明智光秀に与したようだが、赦されて天正11年(1583)旧領の3千石を秀吉に安堵された。

 

 天正12年(1584)には弟の久徳宗頼が高宮を領する河尻秀長と用水を巡り相論となっており、宗重の消息は不明である。

 

 

以下、現地案内板より

 

敏満寺遺跡

犬上郡多賀町大字敏満寺

 

 この多賀SAのある敏満寺上陵から胡宮神社の鎮座する青龍山にかけては、かつて大伽藍を配していた敏満寺跡です。

 敏満寺は、9世紀末から10世紀初頭ころに、伊吹山寺の開基にたずさわった三修上人の弟子敏満童子の開基にかかる天台密教寺院であると考えられています。

 以後、敏満寺は、天皇や皇族の崇敬を受け隆盛していました。鎌倉時代に記された「一山目録」には、現在の胡宮神社付近を本堂とし、40余りの塔堂が立ち並んでいたことが書かれています。

 室町時代に湖東の一大寺院と化した敏満寺は、その勢力ゆえに守護大名佐々木氏や京極氏と度々対立するようになります。応仁の乱以降は山門の一翼をにない、ことあれば僧兵を動員することになり、寺は要塞化した軍事拠点となっていきました。

 そして戦国時代、永禄5年(1562)に浅井長政の攻撃をうけた久徳氏に味方したため長政に攻められ、当時120以上あったという坊舎はほとんど炎上焼失してしまいました。さらに、元亀3年(1572)には織田信長の命に応じなかったことから、残りの坊舎をことごとく焼かれ、寺領も取り上げられ、衰微の一途をたどっていったのです。慶長年間(17世紀初頭)には残った礎石も彦根城普請のため運び去られました。

 造園部一帯は、昭和61年5月~昭和62年3月まで発掘調査が行われ、調査の結果、15世紀末から16世紀末にかけての遺跡であり、高く盛られた土塁、深く掘られた空堀から、要塞化した寺院遺構と考えられ、櫓、建物、門、井戸等の跡及び器類も出土しています。

 

平成2年3月