神戸 摩耶遺跡 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①掬星台より②アメヤ跡③謎の構造物④峠茶屋跡⑤摩耶花壇跡⑥摩耶ケーブル駅舎

 

訪問日:2020年2月

 

所在地:神戸市灘区

 

 摩耶ケーブルは大正14年(1925)摩耶鋼索鉄道により、天上寺への参詣路線として、高尾駅(現・摩耶ケーブル駅)ー摩耶駅(現・虹の駅)間が開業したのが始まりである。

 

 大正15年(1926)には摩耶山株式会社による摩耶花壇も開業する。しかし、戦時中の昭和19年(1944)摩耶ケーブルは不要不急線として休止され、翌年にかけて軌道も撤去されたという。

 

 昭和30年(1955)営業を再開、直後に神戸市交通局により摩耶駅ー摩耶山上駅(現・星の駅)間に奥摩耶ロープウェイが開業される。

 

 昭和35年(1960)頃、摩耶花壇が解体され、跡地にはバンガローや茶店が建てられた。それらも摩耶花壇という名で営業を続けた。

 

 昭和50年(1975)10月、摩耶鋼索鉄道は阪神電鉄の傍系会社である六甲越有馬鉄道に吸収合併され、六甲摩耶鉄道と改名される。

 

 その3ヶ月後の昭和51年(1976)1月、天上寺が放火によりほぼ全焼し、参詣客の乗車が無くなってしまう(天上寺はさらに山上の元摩耶に復興再建される)。

 

 平成7年(1995)に発生した阪神・淡路大震災で被災し、摩耶ロープウェイとともに長期休止状態となる。

 

 平成12年(2000)摩耶ケーブルは摩耶ロープウェイを所有する神戸市都市整備公社に無償譲渡され、ようやく復旧工事が着手される。

 

 平成13年(2001)摩耶ロープウェイとともに運行再開、摩耶駅は「虹の駅」(正式には虹駅)と改称される。

 

 平成25年(2013)蓄電池式の3代目車両が採用され、架線を撤去するなどリニューアル工事による4ヶ月の運休の後、運行を再開し現在に至る。

 

 平成28年(2016)JR神戸線に開業した新駅が「摩耶駅」と名付けられたが、もちろん摩耶ケーブルとは無関係で場所も全く違う。

 

 

以下、現地案内板より

 

アメヤ跡

仁王門の下にあった茶店は「上のアメヤ」と呼ばれ、参拝客に親しまれたが、昭和30年代に廃業、現在は基壇だけが残る。「アメヤ」と文字が彫られたコンクリート製の遺構はラムネやスイカなどを冷やすために湧き水をためる水槽の跡。

 

峠茶屋跡

上野道と虹の駅からの道が出会う峠にあった峠茶屋は「下のアメヤ」と呼ばれ、おはぎ、ぜんざい、きな粉餅、焼きとうきび、昆布菓子などの他に「ネコのフン」と呼ばれる菓子が売られていた。近くには阿福(お福)茶屋という茶店もあった。

 

摩耶花壇跡

摩耶花壇は1926年(大正15)に山上の宿泊施設として開業。当時は地下室を合わせて3階建ての瀟洒な洋館で岩風呂(サウナ)もあったが、今では草に覆われた基礎が遺跡のように残っている。また、周辺は桜並木で春には花見客でにぎわった。

 

摩耶花壇/遺跡

敷地の南斜面に今も残る地下室の遺構。この基礎の上にテラスがあって、遠く海を見晴らす涼風の下、40余名の宴席があった。

1960年前後に木造洋館を解体し、その廃材利用で南斜面には数件のバンガロー、参道沿いには茶店風の売店を設け、同名の「摩耶花壇」と称したが、今やこれも朽ちつつある。

 

摩耶花壇/跡2

入口の壁面に Restaurant 和洋御料理 と掲げた洋風の大食堂と宿泊施設を備えた木造モルタル造りの建物。二階への階段窓にステンドグラスを備えた大正モダニズム建築であった。

窓際に見えるヒマラヤ杉らしい若木の2本が90年以上の歳月を経て、ここにそびえる巨木に育った。

 

摩耶花壇/跡3

開業当時に南西の丘陵から駅舎方面を背景に写された3階建ての外観。ケーブル開通の翌年(1926)に、車道の無いこの地に如何に資材を運んだかの謎と苦労が偲ばれる。

地上階から張り出た斜面の上に見えるテラスの下は石段を通じて降りる半地下室であったが、今はその基礎だけが残っている。

 

摩耶ケーブル駅舎

1925年(大正14)に摩耶ケーブルの山上駅「摩耶駅」として開業。アーチ窓やモダンな照明器具など当時はシンプルながらも洒落たデザインの駅舎だった。現在は神戸市内有数の古い駅舎として改装を重ねながら現役で使用されている。