①本堂と摩耶夫人堂②奥之院跡③三権現社跡④旧天上寺本堂跡⑤旧天上寺仁王門⑥宝篋印塔
訪問日:2020年2月
所在地:神戸市灘区
天上寺は最盛期は摂津第一の大寺だったと伝わり、36代・孝徳天皇、65代・花山天皇、106代・正親町天皇の3代の天皇の勅願寺である。
片仁親王は永正14年(1517)知仁親王(105代・後奈良天皇)の第一王子として生まれた。母は万里小路賢房の娘・栄子、4歳年少の異母弟に覚恕法親王。
弘治3年(1557)父の崩御により践祚するも貧窮のため、毛利元就や本願寺顕如らの献納により永禄3年(1560)にようやく即位の礼を挙げる(正親町天皇)。
永禄8年(1565)将軍・足利義輝が三好三人衆らに殺害されると、彼らにガスパル=ヴィレラらキリスト教宣教師の京都追放を命じている。
永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を擁して上洛し京都を制圧、信長の政権下で朝廷の財政は回復へ向かう。
この間の信長の戦い(元亀元年・1570対朝倉義景・浅井長政、天正元年・1573対足利義昭、天正8年・1580対本願寺)で講和の勅命を発する。
天正10年(1582)本能寺の変で信長が斃れる。その黒幕候補の1人とされるが当然その真相は不明。天下は羽柴秀吉が掌握することとなる。
天正13年(1585)には秀吉を関白に、天正14年(1586)には豊臣姓を与えて太政大臣とし、名実ともに豊臣政権が確立する。
同年、第一皇子・誠仁親王が35歳で急死すると、その16歳の第一王子・和仁親王(107代・後陽成天皇)に譲位した。
貧窮のため後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇と3代続けて崩御まで在位を続けており、譲位は寛正5年(1464)の102代・後花園天皇以来122年ぶりであった。
文禄2年(1593)77歳で崩御。
以下、現地案内板より
旧天上寺の建造物群
市街地から、五鬼城展望公園を通って上野道を登り、青谷道と出会うとまもなく天上寺山門(仁王門)にたどりつきます。江戸時代後期に建てられたこの仁王門をくぐると、最上段の本堂まで長い石段の参道が続き、途中、左手に蓮華院、右手に王蔵院、大乗院という塔頭(本寺の境内にある子院)がありました。石段を上りきると伽藍(境内の中心部)となり、多くのお堂や多宝塔が並んでいましたが、昭和51年1月30日の火災で惜しくも焼失してしまいました。
ここには、本堂、多宝塔、阿弥陀堂がありました。さらに、本堂背後には三権現社、その奥に奥ノ院がありました。
①鐘楼 約4.5m四方の鐘つき堂
②摩耶夫人堂 釈迦の母である摩耶夫人を本尊とするお堂
③護摩堂 薪(煩悩)を火(知恵)で焼いて退治する修法(護摩)を行なうお堂
④阿弥陀堂 阿弥陀仏の像を本尊として祀るお堂
⑤多宝塔 虚空蔵菩薩を本尊とする二重の塔
⑥本堂 本堂は約13.0m四方の荘厳なお堂、正面には本尊である十一面観音像が安置してあった。
⑦三権現社 白山権現、熊野権現、愛宕権現の三社を祀ったお堂
⑧尾桐明神社 摩耶山の鎮守社。太閤秀吉と縁のある稲荷明神社
旧天上寺の親子杉
この倒木は旧天上寺周辺の樹齢100年以上のマザーツリーと呼ばれる巨木の一つ。幹周り445㎝、高さ25mのスギで、3本に分かれた幹が親子のように見えるため親子杉と呼ばれていた。平成30年9月、台風21号の強風で倒れた。
●倒れたときに近い状態で保存しています。
以下略
奥之院跡
本堂の背後約330mのこの地にあった奥之院は、法道仙人によって建立されたと伝えられ、行者堂ともよばれる修験道者の行場の一つであった。内部には不動明王と弘法大師像とが安置されていた。
なお、この奥之院を囲んで、山中に石造の八十八ヶ所の小堂が設置されたのは、明治38年のことであった。