訪問日:2020年2月
所在地:神戸市灘区
元弘3年(1333)1月21日、57歳となった播磨佐用庄の赤松円心則村は護良親王の令旨を受け、長男・範資、次男・貞範、3男・則祐らとともに鎌倉幕府打倒の兵を挙げる。
まず幕府に内通しようとした一族の高田頼重を西条山城に破り自害させ、次に六波羅探題の命を受けた備前守護・加持氏の家臣・伊東惟群を備前三石城にて屈服させて東上を開始する。
室山に陣取った円心はここで味方の参集を募り、摂津に進出して範資が築いた摩耶山城に入る。閏2月11日、六波羅探題の大軍が攻め寄せるが、円心らはゲリラ戦によりこれを破る。
摩耶山城を出て久々知・酒部(尼崎市)に進出した円心は3月10日、瀬川合戦で六波羅探題軍を破り、12日には山城山崎に侵攻し、淀・赤井・西岡付近で火を放った。
さらに3月28日、4月3日と円心は京都を攻めるが六波羅探題を落とすことはできず、鎌倉から派遣された名越高家・足利高氏を大将軍とする大軍を迎え撃つこととなる。
4月27日、久我畷(伏見区)の合戦で、高家を討ち取り円心が勝利すると、高氏は29日、丹波篠村八幡宮で倒幕の兵を挙げ、円心もこれに合流、5月7日、六波羅探題は陥落した。
以下、現地案内板より
赤松円心公碑
1333年(元弘3)大塔宮護良親王の令旨を受け、播磨白旗城で鎌倉幕府討伐の兵を挙げた赤松円心則村は、摂津へと進出して摩耶山に山城を築き、六波羅探題勢を迎え撃った。これが『太平記』に描かれた摩耶山城で、現在は堀切(山城特有の防御手段)や竪堀(空堀の一種)の跡が山中に残っている。