大和 法性山 般若寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①国宝楼門②本堂③経蔵•十三重石宝塔④笠塔婆⑤鐘楼⑥鎮守社

 

訪問日:2020年2月

 

所在地:奈良県奈良市

 

 藤原頼長は保安元年(1120)藤氏長者・藤原忠実の3男として生まれた。母は藤原盛実の娘、23歳年長の異母兄(次兄)に藤原忠通。

 

 天治2年(1125)当時嗣子のいなかった忠通の養子となり、14歳になった長承2年(1133)徳大寺実能の娘で8歳年長の藤原幸子を娶る。

 

 長承3年(1134)権大納言となり、異母姉・藤原泰子(忠通の同母姉)が鳥羽上皇の皇后となると皇后宮大夫を兼ね、保延2年(1136)内大臣・右近衛大将となる。

 

 康治2年(1143)長男・次男に続き16年前に3男を亡くしていた藤氏長者・忠通に4男・藤原基実が生まれると、忠実・頼長と忠通の対立が始まる。

 

 久安6年(1150)正月、12歳となり元服した近衛天皇に11歳の養女(徳大寺公能の娘)藤原多子を入内させ女御となる。

 

 すると忠通は翌2月に近衛天皇の生母・美福門院の猶子で20歳の藤原伊通の娘・藤原呈子を養女とし、鳥羽法皇に奏上して多子の立后阻止を図った。

 

 忠実・頼長も対抗して鳥羽法皇や美福門院に嘆願し、3月に多子は皇后となり、呈子は4月に入内し、6月に中宮となった。

 

 9月忠実は藤氏長者の地位を忠通から剥奪して頼長に与えた。忠通の同母姉である泰子も異母弟・頼長の後ろ盾となった。

 

 仁平元年(1151)鳥羽法皇は頼長に内覧の宣旨を下すが、忠通を関白は関白に留めたままとした。頼長は「悪左府」と異名を取るほどの苛政を行う。

 

 頼長が鳥羽法皇らの信頼を失う中、久寿2年(1155)近衛天皇が17歳で崩御、美福門院や信西の主導で29歳の雅仁親王(後白河天皇)が即位する。

 

 忠実・頼長は近衛天皇呪詛の嫌疑で失脚、同年12月には泰子(高陽院)が崩御、保元元年(1156)には鳥羽法皇が崩御する。

 

 後白河天皇により謀反人とされた頼長は崇徳上皇を担ぎ出して挙兵する(保元の乱)が、白川北殿が夜襲を受け、脱出するものの首に矢傷を受ける。

 

 頼長は巨椋池を経て木津へと逃れ、奈良に逼塞していた忠実に対面を願うが拒否され、夜襲の3日後に死去した(37歳)。

 

 遺骸は奈良の般若野に葬られたが、信西の命により掘り返され、検死の後放置されたという。4人の息子もそれぞれ流罪となり、長男・師長以外は配所で死去した。

 

 都に戻った師長は安元3年(1177)従一位・太政大臣まで務めるが、治承3年(1179)平清盛により再び流罪となり、3年後に帰京している

 

 頼長の17歳の保延2年から久寿2年までの19年にわたる日記『台記』は貴重な史料とされ、源義賢(義朝の弟、義仲の父)らとの男色といった当時の性風俗の一端も記されている。

 

 般若寺では大河ドラマ『平清盛』が放映された平成24年(2012)から境内に残る古い五輪塔を頼長卿供養塔として祀っている。

 

 

以下、パンフレットより

 

コスモス寺 般若寺  歴史ある花と仏の浄刹

 

縁起

 「味酒 三輪の山 あおによし 奈良の山 山の際に い隠るまで 道の隈 い積るまでに つばらにも 見つつゆかむを しばしばも 見放けむ山を 心なく雲の 隠さるべしや」(古里で見なれた三輪山が奈良山を越える道で山の端に見え隠れする。どうか雲よ隠さないでおくれ)と額田王が詠った。いにしえの奈良山を越えるところ、奈良坂の古道にそって立つ般若寺は、飛鳥時代に高句麗の憥潅法師によって開かれた。都が奈良に遷って天平7年(735年)、聖武天皇が平城京の鬼門を守るため『大般若経』を基壇に納め卒塔婆を建てられたのが寺名の起こりとされる。そしてそして平安の頃には学問寺として千人の学僧を集めて栄えたが、治承4年(1180年)平家の南都攻めにあい伽藍は灰燼に帰した。

 鎌倉時代に入って廃墟の中から、十三重石宝塔をはじめ七堂伽藍の再建が行なわれ寺観は旧に復した。なかでも金堂本尊には西大寺叡尊上人により丈六の文殊菩薩がまつられ信仰の中心となった。上人は菩薩の教えである利他の業(自己を高め他のためにはたらく)を実践し、弟子の忍性、良憥たちと病者や貧者の救済に力をつくされた。その尊い慈善活動は福祉の先駆として歴史に名高い。般若寺はその後、室町戦国の兵火、江戸の復興、明治の廃仏毀釈と栄枯盛衰を経ながらも、真言律宗の法灯をかかげ今にいたっている。また当寺は『平家物語』や『太平記』『宮本武蔵』など歴史文学の舞台としても世に知られる。そして四季折々の花は古寺の庭に彩りと風情を添えている。

興正菩薩叡尊の御教誡

「修行の用意は事多くそうらえども、衆苦を恐れず一すじに、一切衆生を済度せんために仏にならんと思い候うを上求心と申す也。怨親平等に哀れむ心深きを下化衆生と申し候。この二つの心を発してゆるぐ事なくて、縁にふれ境にしたがいて、いかにもして妄念をやめんとはげみ候を仏道修行と申し候。」