大和 高取城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①天守台

イメージ 2②天守台

イメージ 3③太鼓櫓と新櫓跡

イメージ 4④本丸石垣

イメージ 5⑤大手門跡


訪問日:1989年頃

所在地:奈良県高市郡高取町

 備中松山城・美濃岩村城とともに日本三大山城に数えられる近世山城だが、その始まりは南朝方の越智氏が貝吹山城の支城として築き、戦国時代に本城となった。

 嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の結果、越智維通の息子で当時10歳の春童丸(家栄)が復権する。さらに同年、筒井氏に摂津河上五ヶ関代官職を巡る内訌が起こり、当主順弘が弟の成実院光宣・順永に追放されると越智氏は順弘を支援して筒井城に復帰させる。

 しかし順弘は家臣たちの支持を得られず嘉吉3年(1443)殺害されると、今度は興福寺大乗院門跡の経覚 (父が九条経教で母は本願寺出身) が河上五ヶ関の直接支配を狙い家栄らと組んで光宣らを筒井城に封じ込め大和支配を確立したかに見えたが、光宣らも反撃に転じ、享徳3年和睦している。

 長禄2年(1458)再興を期す赤松氏の後南朝襲撃、神璽奪還に協力しており、幕府方に完全に転じている。(長禄の変)

 康正元年(1455)河内守護畠山持国の死去に伴う義就と政長の相続争いは大和も二分し、家栄は義就に、筒井氏は政長につき、応仁の乱でも義就方として筒井氏・十市氏・箸尾氏らと戦い、文明9年(1477)ついにこれらを追放した。