未来へと残していきたかったモノ(九博流:平戸モノ語り③) | うろんころんしてみる隊

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うろんころん・・・って何かって?九州弁でして、標準語に解釈するとウロウロと「散策している」「徘徊している」・・・どちらでしょうかね?
傍から見ると限りなく後者に近いわたくしの、人生の糧にもならないつぶやきを書き留めて行こうと思います。

 

誰かその想いを知らんと  繋がれし道は途絶えたり

未だ来ぬ道定まりなくし  繋がれし道は途絶ゆるか

 

 

九博開館20周年記念企画「平戸モノ語り」

巡るは父より受け継いだ藩主としての決められた道か・・己の想いを大事にした道なのか

 

 

 

 

父が残したモノ達を受け継ぎ、また自らの見識眼にて新たなモノ達を迎え入れる。

 

静山父さんのパッションを受け取った煕さん

・父から出世を期待され、英才教育を受ける

・真面目で優等生タイプ、だからこそ悩みも多い

・運動不足解消のために蹴鞠を始める

・地元が大好き、能が好き、自分のことも大好き

・母の貯金で甲冑を作る

・父と同じく記録魔

 

まあ・・・九博さん・・母上の貯金の件は“可秘々々”にしていたほうが・・・。

さらっと書いておくと、静山は17男16女に恵まれており、煕もまた側室である外山松(蓮乗院)の子でしたが、兄たちが廃嫡やら早逝やらとなりて、三男だった煕は十六という齢で10代藩主を受け継ぎます。彼はたいそうな母親思いだったようでして、母から贈られたという和歌の短冊を大切に大切にと保管していたそうです。

そんな大切な母が倹約をして貯めたお金にて作られたのが、「神龍鎧」という美しい鎧。

胴の部分に施された、波と龍の装飾絵は、戦国時代にご先祖(隆信等)達が仕えた大内義隆が厳島神社に奉納したという「藍韋肩赤威甲冑」の模様を手本としているそうです。現物が展示されているので、是非ともじっくりとご覧いただきたいところ。

もちろん、煕さんはちゃ~んとこの甲冑を纏った肖像画を作っておられます。ただちょっと色合いが思ったのと違ったのか「(一応あとで造り替えようとは思っているんだけれど)この絵一寸違うから参考にしないでね」と念を押している様子。

この鎧バージョン以外にも、狩衣バージョンや束帯バージョンなどの様々な肖像画が作られており、また色鮮やかな浅緋(うすきあけ)というオレンジ色の袍も一緒に展示されていました。

 

 

さて、静山父さんの「青雲の志」については前回も話題にしましたが、自らが成し得なかったこの志を息子の煕へと期待をかけるのでした。松平定信の娘との結婚もその期待のあらわれか。

幸い、この蓁姫との夫婦関係は良好なようでしたが、如何せん真面目な煕殿、様々なプレッシャーが影響したのか、心身の不調(眩暈がひどい等)によって、早くも隠居することを決めます。

そして隠居先を父のように「江戸・・・ではなく、故郷の平戸」で過ごす事にしました。

そう、煕はご先祖様たちが護ってきたこの地を大事にすることに決めたのでした。

渡辺綱の曾孫松浦久がこの周辺一帯を「松浦党」として築き上げ、身内間での悶着の末、平戸松浦党として周辺の戦国大名と争いながらようやく治めた領地。ご先祖様の想いがこもったこの地(平戸と壱岐)を・・・これからもまもっていきたい!

 

憧れのご先祖様天祥公の時代より、幕命にて長崎辺備の任を仰せつかっている平戸藩。

長崎は抑々筑前黒田藩や肥前鍋島藩が守護するんじゃ・・いくらうちが近いからってそんなAL〇OKじゃないんだから・・・心の内ではどのように捉えていたのかは不明ですが、煕の時代は正に動乱の時代の幕開け。幕府が外国船打払令を出してみたり、逆に緩和令を出してみたり・・

 

なんか来た・・・え?なに?ちょっ・・英吉利・・何勝手に入っ・・え?阿蘭陀さんに何やってんの?ひぇ・・いきなり人質にとるんk????byフェートン号事件

 

といった具合に、外国さんが・・少々チンピラちっくに揺さぶりをかけてくるので、やだ・・何か危なそう・・と藩内の軍事力の指揮権を家老たちに統括し、海防を強化するために守備範囲の長崎やら壱岐やらに大砲を備え付けた煕さん。

とても賢い方で、藩主を退く時も、第一の勤は、人々の賢いところを・・と要は人は適材適所で邪な僻みなどによって政道の妨げにならないようにしてね!と伝えています。

対外危機やら財政難やらと、様々な困難があったようです。

 

 

少々横道に逸れてしまいましたが、煕も「亀岡随筆」というものを残しており、こちらは八十二巻となっております。

静山の「甲子夜話」も煕の「亀岡随筆」も心は同じなのです。それは、自らが知り得たモノたちを子孫へと伝えたいという想い。こうして書き留め遺す事によって、これらが智慧としての財産となることを願ったのではないのでしょうか。静山が遺した甲子夜話の原稿を煕はきちんと製本し、父の十三回忌に合わせそれらの副本が完成した事を報告しています。

 

展示されたモノ達の多様さは、先人達への敬意と今自分達が知り得る様々な事象を正しくきちんと遺すことで、脈々と続いていく未来に向けて子孫達もこれらを財産として活用し、またその先々にも遺していって欲しいという、現藩主としての願いの表れだったのでしょう。

 

今やたくさんの情報を方々から手に入れる事ができる私たちと違って、古きモノも外国から届くモノも、自らが触れる多様なモノ達は、とても刺激的かつ魅力的なものだったと思います。

実は、能が好きだった煕さんですが、静山父さんから禁止されてしまい(抑々父さんが習わせておきながらあまりの上達っぷりに、いやこれはあくまで嗜みなのであってお前は能役者にでもなる気なのかと辞めさせられたという・・・何事も上手く身につく人だったのでしょうね)古銭集めにはまったそうです。煕少年が八歳の時に書いたという書字や、馬の絵等はとても年少のものとは思えない程の出来。よくぞあの篆書体を一筆で書けるもんだとまじまじと見惚れてしまいました。馬の絵も体の肉付きやバランスが上手い。

 

このように、「うわ~二人ともホント多才」と思わせるモノと、珍しいのを集めてみたというモノ(ダチョウの卵とか古い瓦とかアイヌ民族が使っていた道具とか)和書や絵巻や洋書・・。

それと、ご先祖様が使っていた古い道具(武具)など、幅広い守備範囲を、第一章 静山モノ語り、第二章 煕モノ語り、第三章 特別公開「家世修古図」と松浦・平戸の宝と三章に分けて展示されていました。

 

煕の章については、モノの中にも彼のどこか精神的な・・いや霊的というべきか?それらに意味を持つモノ達がありました。この点についてわたしもきちんと説明できるほどの知識がありません(御免なさい)。そこには、煕が生きた時代背景も大きく影響するのかも知れません。

途中不真面目に書いてしまいましたが、「内憂外患」の時代において、一国(藩)の主としての責任は如何程だったのか。

ご先祖である渡辺綱の絵巻を「武」の象徴として祀ったのも、心の片隅でご先祖が持った「武力の魂」に少しでもあやかりたかったのかも知れませんね。

そして、いずれの時にか己が死して後にも、自分自身も国(平戸)を子孫たちを護っていく力となりたいと望んでいたようでした。

彼が「神」である精神性に惹かれていったのも、自らの祖が皇統に繋がるが故であったからでしょうか。源融よりさらに遡り天之御中主神より繋がる「神系」という系図を書き留めていることからも、松浦家の当主という重みと誇りを背負っていたということでしょう。

 

くり返しますが、静山の祖母である久昌院が彼に言い聞かせた

「天祥公(四代目藩主の鎮信)が藩主になったのは十六歳の時でした。『国』に教育を広め、『旧物』を失わないようにしたことで、民はその徳を称えました。今やあなたも十六歳。それを手本とし、先祖の功績や教えを守りなさい」

この精神を根本に、西の果てにある小さな外様藩の藩主達は采配を振るっていったのでしょう。この後、明治維新と共に廃藩を迎えるまで、(実際は廃藩後も混乱は続くのですが・・・)これら静山や煕たち親子が遺してきたモノ達を受け継ぎながら彼等の子孫もまた動乱の荒波を乗り越えていくことになります。

 

さて、「旧物」ともいえる、ご先祖達が遺してきたモノ達を書き留められたのが第三章にて取り上げられた「家世修古図」となります。これらについては・・もう少しだけ・・お付き合い願えればと思います。

(しつこいけれども・・・続く)