今日もまた一日引きこもって、「リアルタイム生成物語」の序章の続きを書いていたのですが、この物語を書き始めてからは全く外に出なくなっているため、いつの間にかそれだけ、熱中して考えていることに改めて気が付きました。
そのため、今日も外出は諦めて、次のシーンをどう展開していくかを考えていたのですが、その中で、登場人物同士の距離を少しずつ近づけていくための題材を考えるにあたって、あることを思い出したのです。
それは約一年前のブログにも書いた、母とのやりとりのことでした。
当時の記事はこちら↓
それは、母と会話をする中で、普段見ているつもりでも見えていないということに気が付いたという出来事だったのですが、今思えば、あの時の母とのやりとりがあったからこそ、今回のシーンを書くことができたのではないかと思います。
その頃の母は、認知症がかなり進んでおり、精神的には無邪気な子どもに近い状態でした。
そのため、歩きながらずっと、周囲の様子を言葉にして実況中継をするような状態だったのですが、母は何かを見つけるたびに、
「あそこにビルが建っているね。」
「黄色の車が走っているね。」
「あそこに鳩がいるね。」
「車が3台通ったね。」
と自分が見たままを、そのまま私に伝えていたのです。
ですが、当時の私は正直なところ、その母の言動に少し戸惑っていたのです。
というのも、人前でそうした実況中継のようなことをする点にも戸惑いがありましたし、それ以上に、一つひとつの景色に反応する余裕が、当時の私にはなかったからです。
ですが、あとになって振り返ってみると、母が口にしていたことは、どれも確かにそこに存在しているものばかりだった、ということに気が付いたのです。
つまり、それらは「なかった」のではなく、私の意識の中で最初から「見えていなかった」だけだったわけです。
そのとき私は、これが「スコトーマ」、つまり心理的盲点なのかもしれないと気が付きました。
ちなみに、「スコトーマ」とは、本来は視界に入っているはずのものが、意識が向いていないという理由だけで、存在しないかのように扱われてしまう現象のことなのですが、この出来事を元に、私が無意識のうちに自分の世界から切り落としていたものを、母は自分が見た物をそのまま言葉にしていただけだったのだと気が付いたのです。
そして、今になってそのことを思い返してみると、ちょうど今書いている物語の場面も、それにとてもよく似ていることに気が付きました。
というのも、その場面は、状況を説明し直したわけでもなく、意味づけを増やしたわけでもなく、ただ、それまで見ないようにしていたものを、あるものとして扱うようになっただけというシーンだったからです。
でも、逆に言えばたったそれだけの違いによって、世界の見え方は大きく変わってしまうのだということです。
そして今考えれば、当時の私は、母が子どもになってしまったのだと考えていましたが、実はそうではなく、むしろ私の方が、大人になりすぎていただけだったのかもしれないと思いました。
おそらく私は、意味があるかどうか、役に立つかどうか、そういった基準を無意識のうちに優先させながら世界を見ていたのだと思います。
ですが、その結果として、見なくても困らないものを、静かに世界から外していたのではないかと思いました。
そんなことを物語を書きながら思い出したことで、約一年前にブログに書いた出来事が、今の自分の思考につながっているように感じられて、少し不思議な気持ちになりました。
こう考えると、これまでに経験してきたことが、知らないうちに私の物語の書き方にも影響を与えているのだなと改めて感じました。
今書いているシーンがこの母との思い出に重なることで、もう少し深みのあるシーンにできたならと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
