この世の全てが、地図や本の中にあるわけではない。

この世の全てが、地図や本の中にあるわけではない。

散歩話をちょい長めの文章で、我がまま気まま、独断と偏見で綴ります。
昔の日記を書き起こしながら、最近の事柄も綴るので、ブログ内はぐちゃぐちゃになりう。

Amebaでブログを始めよう!

今年は中国ウィルスの影響で、盛大なハロウィンは行われないでしょうから、数年前の写真を掲載します。

 

昨今ちびっこ達のパレード(最近手が込んでいる)もあっちこっちで行われており、撮影したいのだが、親御さんの了解を得るのが億劫で、、、

断られると、幼児趣味の性犯罪者扱いですからね滝汗滝汗滝汗

 

この時は、アシスタントにカワイイ仮想した女の子が同行してくれたので、写真を撮らせてくれる女子が多かった。

次の年は一人で行ったので、足蹴にされへこんだものですショボーン

男一人で行くと、ちょっとやばいカメラ小僧扱いされます。

 

新しく購入した写真編集ソフトで写真をアップです。

Luminar使い方まだよーわからんゲッソリゲッソリゲッソリ

 

 

DJポリスも出動、人人人凄い。

バレンタインチョコ、土用の丑、初詣、年賀状と同じく、企業戦略がまた新しい風習を根付かせそうですね。

 

 

 

カワイイラブラブ

シンデレラの物語では、足が靴に合うようにとかかとをそぎ落としたり、白鳩が目玉をくりぬいたり。

白雪姫は、焼けた鉄の靴で死ぬまで王妃を躍らせたり。

赤ずきんは、オオカミに食われて終わり。

そう考えると、なかなかハロウィン的な物語です。

右横のリーマン、何気に怖い。

 

 

お化けでも、かわいけりゃ、、、、ドキドキ

男はバカだなぁと思っているでしょ?

ドラキュラは、女性が受け入れないと部屋にも入れないんですよ。

だからイケメンしか生き残れない。

僕がドラキュラならすぐ餓死ですよむかっムキームキー

 

 

最近ミカンの赤いネット見なくなりましたね。

 

 

名刺持ってくんだったと後悔しましたハートブレイク

 

 

for女性にサービスショットです照れ
学生に戻りたくなった。

俺が今やったら、若年性痴ほうと思れ即回収ですww

 

 

元々、ケルト族のアミニズム、風習が根源と言われています。

キリスト教には関係なかったが、アメリカには浸透していきました。

日本には、ディズニーや映画の影響が大きいね。

 

 

壁をバックに、クリップオンストロボを試してみる。

 

 

海外からの参加ドキドキドキドキ

 

 

宇宙からの参加ラブラブ

 

 

 

聖人君子と呼ばれている人も一皮むけば、、、人は全て罪といいます。

 

 

単焦点レンズ。

F値が小さいとボケ、抜けが気持ちいい。

 

 

モデルでも雇わなければ、こんなコスプレ写真撮れませんからね。

それも色々工夫を凝らした人が多くて。

毎年撮りに行きたくなります、ってか出勤経路上なのですが。

 

 

ホラーと言えば射光。なぜ皆クリップオン使わないのかな?

それにしても、海外の化け物ばかり。
(わざとノイズのせています)

 

 

有名人も、沢山渋谷を訪れたとか。

 

 

 

メイドさん達は一切笑わず、話もせず、なかなかの雰囲気でしたグッド!

彼らも西洋の化け物ですね。

 

 

見つけました↓ 

日本の化け、、、、?

 

 

 

 

 

(広告)

人物撮影は、楽しいですね。

ポートレート写真、家族やイベントの撮影承っております。

 

来年の🎃撮影サポート(女子or超イケメン)連絡待っています。

一緒に撮りましょう。

 

 

 

 

 

 

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今回使った写真編集ソフトです。

今回は汚く見せる為に使いませんでしたが、ポートレート編集はPhotoshop並みの仕事を一発クリックです。(こだわれば、補正したくなるけど)

まだまだ使いこなせていませんが、編集が面白くなりそうです。

 

 

 

 

2005/04/02の日記です。


簡素でだだっ広い部屋にも、朝の光がこぼれ、目が覚めた。
宿泊者は、他に居ない。

大学で一夜を過ごすという稀な環境に、面白さを感じての宿泊だった。

朝食を取った食堂では、ノートにびっしり漢字を練習する欧米人の姿がいくつもあった。彼らに表意文字はどううつるのか。
黒人と白人が中国語で話する光景は、まるで吹き替えられた映画を見ているようで、新鮮にも、少し滑稽にも映った。
拡大する中国勢力、至る所にあるチャイナタウン。
いつか見慣れた光景になるのかもしれない。
       

今日の目的地は博物館。


まだ学生だった頃、たまたまつけたテレビ番組で、漫画家の水木しげるさんが南京を訪れていた。
いつかはここを訪れてみたいと、彼のたっての願いだったように記憶している。
戦争の生き証人である彼が、その愚かさについて、ぽつぽつと語っていた。


(ネットより拝借)


戦争の記憶とは、一体何年取り憑けば、彼らを解放するのであろうか。
彼はもう背を丸め、晩年を迎えるというのに。

この時初めて、彼に左腕が無い事を知った。
多くの戦友と共に、ラバウル戦線で失ったという。
この頃の僕は海外への興味は無く、視野は今より更に狭く、自分の作った世界に閉じこもっていた。この番組が自身に一石を投じた事は、ずいぶん後になってから気付く。


戦争は、理解し合えない者同士の末路だ。残念ながら珍しい出来事ではない。
しかし南京のそれは戦場ではなかった。その事は知っていたが、改めてその事実を突き付けられる番組だった。


ここに来たからといって、何かが解決するとは到底思えない。が、この機会を逃すと、妙な嫌悪感を引きずるように思えた。

れいの地図帳では南京の細部などわかるはずもなく、道行く人に尋ねながら自転車を走らせた。
向かい風は、少し肌寒い。

進むにつれ「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館」と書かれた大きな看板を、あちらこちらで目にするようになる。
何と読むかは分からないが表音文字、内容は見て取れる。


大通りを曲がり少し行くと、町のど真ん中に白く高い塀に囲まれてそれはあった。
事件当時も、ここには市民の日常が、いつものように営まれていたのだろう。


(ネットより引用)


門をくぐると大きな駐車場があり、観光バスがたくさん停まっていた。
ここの駐輪場、駐車場、拝観料は全て無料であり、中国政府の日本に対する姿勢がうかがえる。
まさか自転車の荷物を全て持って入館できるはずも無い。
いつもなら荷物は宿に託すのだが、南京大学でのもう一泊は気が進まなかった。ここなら観光地なのでロッカーくらいはあると思っていたが、当てが外れた。
荷物のほとんどを、自転車にくくりつけたまま行くしかない。


駐輪管理所のプレハブが目についた。安全の為、門から入って来る人からは目立たず、自転車の管理人からは良く見える所に止められないかとスペースを探していると、管理所のおじさんが他の自転車を詰め、管理所正面にスペースを作ってくださった。
そして「私達が見張っていてあげるから心配しなさんな(身振り手振りでそう思えた)」と笑顔で言ってくれた。
「謝謝 (ありがとう)」
その間も、次から次へと、観光バスがやって来ては、乗客が館内へ吸い込まれて行く。

貴重品の入ったバッグだけを肩にかけ、博物館の入り口に向かう。
管理所のおじさんが、背中越しに訪ねてきた。
「あなたは、どこから来ましたか?」
国名を答えたが、彼は耳が遠いのか聞こえなかったらしく、先ほどより大きな声で「どこから来たの?」と聞き返してきた。
おじさんに聞こえるように、もう少し大きな声で

「リーベン (日本)」と答えた。


するとおじさんの笑顔は消え、周りにいた観光客、チケットを渡すお姉さん、ガードマン、皆が一斉に僕の方に振り向いた。

一瞬目の前の時間が止まったように思えた。
沢山の視線を感じながら、そそくさと大勢の観光客にまぎれ館内に入った。

(ネットより引用)


館内は日本軍の侵攻地図、殺された人の数、遺品、それらを表現したオブジェ、慰霊碑、死者の安らぎを願うロウソク、花束、そして土に埋もれた人骨が展示されていた。
この惨劇を今も胸に抱いて、この時間を生きている人がいるのかもしれない。
もしかすると、今日、市場ですれ違った人がそうなのかもしれない。

もっと考える余地はある。歴史とは骨董品ではない。
綺麗にしまいこんでいてはいけない。

今この瞬間もこの地上のどこかで、力無き者が命を失っていく。
我々にとって反省から教訓を得る事はそんなに難しい事なのだろうか。
それを学ぶ場所として、ここはあるべきだと思った。

殺し合いが正義か否か、全ての人は答えを知っているはずなのに。
自治区を圧政する共産党のかかげる『平和』の2文字が滑稽にすら感じる。

あっという間に閉館時刻を迎た。

自転車はそのまま置かれてあった。
あのおじさんが守っていてくれたのであろうか。

 

 

 

 

追記~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

初めて東京の居は、調布だった。

水木さんも調布に住んでおり、よく商店街を歩いている姿を見たものです。

サインをもらいたいと思った頃には姿はもうなかった。

多分車椅子になってから、外出が少なくなったのだろう。

 

どの本も、評価が凄く高い。

走らせたペンには、並々ならぬ思いが宿っていたのでしょう。

 

 

 

 

このほかにも、戦争に関するマンガは沢山出しておられます。

図書館にあるなら、レンタルでもよいので読んでほしいです。

僕も一冊しか読んだことが無い、それも遠い昔、これを機に、、、、

 

 

 

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2005/4/1の日記です。


昼食は、気の良い若いカップルが経営する飯屋で取る。
残念ながら、言葉は通じない。


黄色い服の似合うウエイトレスさんが、やたら気を使ってくれ、店外に出てチャリに取り付けた水筒を指さし、入れてあげるとゼスチャーする。
「いや、まだ中身はあるよ」と水筒を振ると、それをヒョイと取り上げ、中のお茶をすべて捨ててしまった。
 

ええっ、なんて事すんだよ!


と思っていると、キンキンに冷えたお茶を満タンにしてくれた。

 

彼らと写真を撮り、メールアドレスをいただいた。

またいつか会えるようにと。

 

 



夕方この旅の最初の目的地に着いた。
十年以上も前から、いつかここを訪れたいと思っていた。

目的地の都市は、上海と同じようにビルが整然と立ち並ぶ町だった。
しかし公園や昔ながらの石の建物も見え隠れし、どこか穏やかで、視線はおのずとキョロキョロ、ペダルはゆっくりとなる。

 

(ネットより拝借)


道行く人に安宿街を聞いては、自転車を走らせているうちに、うっかり交通整理をしている警官の前で、信号無視をして捕まってしまった。

車でさえ、時折信号無視をしている国なのに。
それに渡ってしまったのは、大通りに接するとは言え、細い通りではないか。
とは言え、違反には変わりない。

捕まったのは、僕だけではなかった。
もう一人は、学生服をまとった女の子だった。
彼女は、警官と少し話した後、今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。

共産国ならではの、厳しい罰があるのか?
それとも罰金が途方もなく高額なのであろうか?

彼女に、罰金はいくらかと英語で訪ねてみると、50元(約700円)と英語で教えてくれた。

僕は警官に「どうやって払えばよいのですか?領収書はいただけますか?銀行振り込みは駄目ですか?」と尋ねてみた。
そのように尋ねたのは、以前旅人から、警官が罰金を着服している国が有ると聞いていたからだ。
すると警官は全く英語が分からず、尻込み始めた。

しめたと思い、困った外国人の振りをして
「私は今とても急いでいます。日暮までにホテルに入りたいのですが、まだホテルを見つけられません。日が暮れては不安です。助けてください。please help me.」
と早口でまくし立てた。
ますます警官はたじろき、そこで彼は捕まえた女子学生さんに通訳を言い渡した。
「今回は大目に見てあげます、以後注意するように。」
と彼女が警官の言葉を震えた声で僕に告げた。

それと同時に、今までこらえていたのであろう、彼女の瞳からどんどん涙があふれて頬をつたった。

50元の罰金は彼女には大きく、両親に迷惑をかける事を悔やんでいるのだろうか?
まさか、罪の意識からか?

罰金を免れたのにもかかわらず、素直に喜べなくなってしまった。
僕は警官に「ありがとう」と言ってその場を立ち去り、少し離れた所で自転車を止め、彼女が警官から解放されるのを待った。
数分後、解放された彼女は僕の方に向かって、自転車を走らせて来た。
ちょうど僕の立っていた交差点の信号機が赤になったので、彼女は僕の前で止まった。

そこは、先ほど捕まった信号機だった。

彼女のそばに自転車を寄せ話しかけた。

「先ほどはありがとう、助かりました。」

彼女の目はまだ真っ赤で潤んでいる。

「僕も罪を犯したし、そのうえ君に助けられました。だから罰金の半分を払わせてください。」

精一杯の慰めだった。

「ありがとう、でもいりません。」

すべての車両が目の前を通り過ぎると、信号が赤にもかかわらず、周りの自転車、歩行者は皆、信号機を無視して渡って行った。

二人だけが取り残されたように、横切る物がない歩道の前に突っ立っていた。

「でも、それは不公平だ、僕も払いたいのです。」

「ありがとう、でも必要ありません」

視線をこちらに向ける事なく、うつむいたまま答える。

信号が青になると、横断歩道を1人渡り、外灯の中に彼女は消えて行った。

彼女が見えなくなってから、宿探しに再び自転車を走らせた。

 

中国に来て驚いた事の一つに、日本人に対して敵意があまり見て取れない事がある。
むしろ友好的な人が多く、親しみを感じる。


しかし、今晩たどり着いたこの町はどうだろう?


『南京』


小さい出来事ではあったが、信号無視の一件で、いきなり晴れない気分になった。
この町に来る前から、もっと大きな覚悟はしていたのだが。

 

 

 

 

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2005/03/31の日記です。


宿泊先隣の食堂で朝食をとる。
店員がずっと笑顔子で可愛く、話しかけられたラブラブ
朝から幸せな気分だ。
その上追い風も加勢し、ペースがあがる。

  
笑顔に勝る、素顔はない。


雄とは、単純である。


中国人ドライバーは、やたらとクラクションを鳴らす。
混雑しているならともかく、車道の端っこを走るチャリンコにも鳴らし、追い越して行く。

近くで鳴らされようものなら、ビクッとしたりイラッとする事もある。

しかし、観察してみるに、このクラクション
「早よ行け!」
「邪魔や!」
「どけ、ボケ!」
ではなく「今から追い抜くよ。」と自身の存在を伝えているのであった。
後ろから車の走行音が聞こえてくると、軽く振り向いて「あなたが来ているのは確認済みです。」と身振りすると、鳴らしてこない。

誤解していた。

 

でも、毎回身振りするのも面倒くさいんだけどね。


上海からここまでの道のりは、たいした坂も無く、左膝の古傷にも良いトレーニングになる。
しかし体重のほとんどを支えるお尻が痛い。

まずは尻の真ん中が痛くなってくる。
痛み回避のため、次は左尻で座る。
それも痛くなって来ると、次は右尻で座る。
今はその3点を、ローテーションしながら座っている。


だが、その間隔もどんどん短くなってきた滝汗滝汗滝汗
お尻をさわると、でかいニキビみたいなシコリがいくつか出来ていて、
痛くて、痛くて、もうそれは三角木馬ゲッソリ

宿にて、、、、
パンツを脱ぎ、鏡をまたいで、でん部の容態を覗き込んで、指診してみる(中には、入れてないよ)。
昨日より、腫れが肥大しているではないか。
1ヶ月も経つと、じょじょに尻の皮が強くなり、痛みも引いて来るはずなんだけど。




メモ~~~~~~~~~~~~


そそ、鏡をまたいで、今迄見たことのない自身の局部を見た。
物事は多面的考察をもちいて判断しよう。
そう自分に言い聞かせてきたんだけど、一生見なくてもよい面もあるんだなと思ったゲローゲローゲロー

 

 

 

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2018/01/27の日記です。

 

 

五体投地を毎朝しているお爺さんに会うため、ハウラー橋たもとのガート(*1)にやって来た。

インドといえ、1月の早朝はやはり肌寒い。

その中、フーグリー川の糞尿も混じった汚泥に体を投げ出し、数時間祈っておられるのだ。



 

修験者でも、聖職者でもなく、バスで近くの町からやって来る、普通の人なのだ。
言葉は通じないが、会うたび笑顔で迎えてくれる。
彼はなんとも優しい口調で、ガートを住み家としているホームレスの子供達にも、我が孫のように話しかけ、頭をなでる。

感謝、償い、贖い、いったい彼はこの川になにを拝んでいるのだろうか。
ガンジス川(フーグリー川は、ガンジス川の支流)で、生涯を全う出来ることは、この上ない幸福と言うが、死に際に全てを預けられる安らかな時がある事を、なにか羨ましく思える。

この日、爺さんには会う事が出来たが、土曜日は五体投地をお休みしているという。
変わらぬ、沐浴、洗身、洗濯、川の流れを眺めながら、またコルカタに帰って来たんだなとチャイをすする。

目的もなくガートを歩いていると、こっけいな格好で寝ている人を見つけた。
インドでは、路上で寝る事は珍しくない。
熱帯夜の日は、家の中より涼しく、寝心地が良いのだ。

 

(これはお昼寝)

 


(コルカタ、早朝のニューマーケット前)

 

駅構内でなら自身も何度か寝たはがあるが、彼は違っていた。

ジャーマンスープレックスを決められ、そのまま固まったような寝相なのだ。
今まで何度も面白い寝相を見てきたが、彼のポーズはなかなか変則的だ。
遠くから、1枚撮らせてもらった。

そっと近づいてみると、泥酔して漏らしてしまったのか、体から体液まで流れ出てきている。

ん?

それにしても何かおかしい。表情は穏やかな寝顔なのだが、首はありえない側に曲がり、息はしてなさそうではないか。

(一番最後に、その写真を貼り付けています。)

「Excuse me、マナステ」と声をかけても、やはり反応が無い。

もしかして?


近くにいる人に「Call ambulance! call police!」と声をかけた。

インドでは、人を焼いているところを何度も見てきた。
パンパンに膨れあがった、どざえもんも幾度か見てきたが、突然のこの光景は衝撃だ。(*2)

幾人か寄ってはきたが、彼をみて顔を強張らせると、すぐその場を立ち去ってしまう。
誰もが事態を把握すると、何事もなかったようにそそくさと去ってしまうのだ。

日本なら、列島を震撼させるような騒ぎだ。

先ほど、俺達を撮りなよと声をかけてきたクシュティー(インドレスリング)の兄ちゃんが目に留まったので、頼んでみた。

 

彼を見るなり、マフィアにやられたのかもしれないなぁ、とつぶやいた。
コルカタでは、マフィアどうしの闘争もあるという。

そして彼は、携帯電話を取り出してくれた。



(やられている方の兄ちゃんが連絡してくれた。警察が来たのは1時間以上経ってからだった。)


どうして、誰も電話してくれないのかと尋ねると、第一発見者は容疑者にされる事があるからだという。
それで、有罪になる事もあるようで、触らぬ神に、いや仏に祟りなしだ。


警察は、無理やりにでも手柄、実績をたてたいのであろうか。


この夜、床に入ると、ジャーマンスープレックスの彼の表情が、幾度となく脳裏をよぎった。

自身がこの世を去る時は、どんな所で、周りには誰がいるのだろう?


そして最後に目に映るものは何なのだろう。
などと繰り返し頭の中をよぎった。






(*1)
池や川岸に設置された階段状の親水施設。 
炊事や洗濯場のほか、水にまつわる場所を神聖視するヒンドゥー教徒の沐浴や葬礼の場として用いられる。

(*2)
日本とは違い、河原や、海辺といったオープンスペースに火葬場がよくある。
誰でも見物出来るし、そのまわりで子供が遊んでいたりする。
また見物していると
「そのカメラで彼女(遺体)と私達家族を撮って、写真を送ってくれませんか。」と声をかけられた事もある。
そして、病死や交通事故などで、一生を全う出来なかった人は、焼かれることなく川に流される事がある。

 


(追記)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

ヴァーラーナシーなどでは、流れてくる死体を見て、驚いたり騒いだりする者はいない。
船の漕ぎ手などは、進行の邪魔だと、カイで死体を押し返したりする。

特に珍しく、驚くべきものではないと言うのも、所変わればなのだろう。
確かに、宝クジが当たるよりずばぬけた確率で、誰もが1度は引いてしまうクジなのだから。

それは、日常と言えるのかもしれない。

 

 

 

 

~関連物の紹介~

 

ある日、不思議な夢を見て自らの死期を悟った父ダヤは、ガンジス河の畔の聖地「バラナシ」へ行くと家族に宣言する。家族の大反対もよそに、決意を曲げない父。仕方なく、仕事人間の息子ラジーヴが付き添うことに…。辿り着いたのは、安らかな死を求める人々が暮らす施設「解脱の家」。施設の仲間と打ち解けながら、残された時間を有意義に過ごそうとするダヤ。はじめは衝突しあうも、雄大に流れるガンジス河は次第に父子の関係をゆっくりとほぐしていく。果たして、ダヤは幸福な人生の終焉を迎えられるのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近、弁当箱のようにデカく重いロンプラを持ち歩いている旅人は見なくなりました。

昔は、宿に帰れば誰かが(主に白人)この本とにらめっこしていたものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2005/3/30の日記です。

 

朝からジュン君の、就職問題と、面接の練習に付き合う。

昼過ぎ、お母さん、ジュン君をはじめとする家族に見送られ、北西に向け自転車を走らせた。
いや、昼ごはんも美味しかったなぁ、、、
なんか食べ過ぎて、太ももを上げるとお腹が圧迫するようで少し苦しい。
ほんと谢谢である。


ジュン就職うまく行くよう祈ってるよ!

大通りに出た所で方向に間違いはないか、道行く少年に声をかけた。

もちろん中国語は話せないので「我去(ウーチィ(私は行く))」と言って、行く方向の地図を見せるのだ。
そして「OK?OK?」と親指を立てる。
これが、あんがい通じてしまうのだ。

すると少年は英語で「案内するよ!」と申し出てくれた。

彼の名前はクー、中、高校生ぐらいか。
反日教育が施されていると聞いていたが、日本人だと伝えても、笑顔がたえない。
彼の人柄が伝わる。


「この辺りの美味しい料理ってなに?」

「何人家族?」
「安いホテルを探していますって、(中国語で)なんて言うの?」
「前かごに入っている物はなに?」
など、たわいもない会話を交わす。

前かごに転がっていた大きな瓶は、蜂蜜だと言う。
その値段、なんと120元(1700円ぐらい)。
自分一人で食べるんだと、また笑顔がこぼれた。
中国の物価を考えるに、少年にはなかなかの高級品だ。

彼と並走してもう10kmは進んだであろうか。

方向はもう分かったから一人でも大丈夫だよと言っても、同じ方向だからと、さらに並走はつづいた。

その後も再び10kmは並走したであろうか。常識的に考えて、同じ方向だからと20kmも自転車を走らすであろうか。
僕の感覚では、コンビニ、スーパー、最寄り駅までの足として自転車を使うぐらい。
それ以上は、交通機関を使うだろう。

もしかすると、道案内の料金を要求してくるのではないだろうか?と彼を疑い始めた。

无锡市郊外に入った頃には、すでに黄昏時となっていた。


「そろそろ君とはお別れです」と彼が言った。
彼がどこまで付いてくるのか、少し心配になっていた僕は、心をなで下ろした。

そんなおり彼は何気に、ハンドルを切り、自転車を歩道に乗り上げさせた。
その時小さな段差で、前かごに転がっていた蜂蜜の瓶が勢いよく跳ね、籠からこぼれ落ち割れてしまった。
 

アッっと声をあげてしまったのは僕だった。

彼は声をあげる事もなく、表情が固まった。


「大丈夫?」


「うん、大丈夫。大したことないよ。」


と目を見開きながら、口角を上げて笑顔を作った。

「・・・・・」

割れた瓶はそのままに、彼が先に自転車を走らせた。

 

我々は、少しの間無言で自転車漕いだ。

 

突然彼は鼻唄を歌い始めた。


自身に、全然平気だし、

気にしてないし、

もう忘れたし、

終わった事だし、

と言い聞かせているようす。

 

そして、まだ少年だなぁと愛らしく思った。

 


建物はないが信号機だけが立っている交差点手前で

「じゃ僕はあっちに行くよと」彼は自身の行先を指さした。


ちょっと待って、と僕は自転車を止める。


ありがとうと握手し、そして道案内のお礼を言い、蜂蜜の事もあったので案内料をもうし出た。

「そんなの要らないよ」


そう言い放ち自転車を走らせながら、大きく手を振り、灯りのともりはじめた街に消えていった。

 

 

自分を恥ずかしく思った。



繁華街に辿り着くと、早速彼に教えてもらった
「有便宜的旅馆吗?(ヨ ピエイーダ リューカン マ (安い旅館ってありますか?))」
が本当に役立った。

 

個別指導料ぐらいは、払うべきだったな。

 

 

 

 

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インドから又、いたたまれないニュースが飛び込んできました。

今回は、いくつか目にした差別のお話のひとつを書きます。

BRIC(ブリック)などとはやし立てられていますが、インドは根本から先進国(←この言葉嫌いだけど)にはなれないでしょう。この問題を、クリアしない限り。

日本に差別はないとは言えないけど、インドのそれは、あまりに悲しすぎまる。

 

 

最下層と呼ばれる人達の結婚式にお邪魔した話も、そのうち載せますね。

 

 

 

 




2006/05/29日の日記です


色々あった日で、ながぁ~~~い文章となりましたゲッソリゲッソリゲッソリ

つたない文章、修行と思って耐えてください。




『もし彼女が天国に行くのでなければいったい誰がそこへ行くというのか。
貧しい人々を容赦なく掠奪し罪を洗い流すため、ガンジス川で沐浴したり、寺院に香をささげたりするあの太った奴らが行くと言うのか。』

 

文豪 プレームチャンド

(ネット上より拝借)

朝食の為に立ち寄った、小奇麗で繁盛しているダバ(*1)の店員は、無愛想だった。

豆カレーとチャパティ、ラッシーを頼むと「それだけか?!」と言われ耳を疑った。英語がわからずに、そう言ってるのかと思ったが、明らかに無愛想で横柄に対応された。

英語を理解しているのだとわかった。

朝食は軽い物と、持参のバナナと決めている。

(ちなみに豆カレー(ダール)は、辛さと油控えめであっさりとし、朝食に合う。そして値段はお手頃。)

それに、朝から重い物を食べると、走られなくなる。単価の安い注文に不服なのか、食後にチャイを頼んでも即答で「ない!」と言われた。

しかし僕の後で注文したおじさんには、チャイがすぐ出された。

「金持ち外人は、もっと金を落として行け!」とでも言いたいのか。

アウトカーストを、人と思っていないのか。

文句を言ってやりたいが、勘定時に代金を吹っかけられると思うと、何も言えなくなる。

自国でこんな状況に会ったことが無い事を思うと、この国に生まれなかった事の幸運を感じるほど胸糞わるい。
そして、こういった輩に限って、いかにも『俺様は、携帯電話所持者だ!』と言わんばかりに、目に付く所にそれを所持している。

彼も拳銃のホルダーを腰に掲げるように、腰に携帯電話のホルダーを引っ掛け、電話もかけないのに手に取ったり、ホルダーにつっこんだりとちらつかしていた。

この国では未だ、携帯電話はステイタスシンボルで、超自慢の一品なのだ。

カメラを向けようなら『ちょっと待って』と言って、携帯電話を借りてきて、他人の車に肘をかけ、電話を耳に当てポーズをとるお茶目な兄ちゃんもいた。

日本にも少なからずあったが、あからさまな所は、この国の面白い所だ。

「インドの男は、自己中心的で幼い奴が多い!」と、ドミトリーで知り合った欧米人旅行者が言っていたが、さもありなんと思った。

でも、子供のように素朴で純粋とも言える。そんな人に会えると、自身も素直に戻れるような気がする。

お金はエゴイスティック要素を人に与えると聞いたことがあるが、この国では、恫喝的な態度を取る小金持ちによく出くわす。

そして貧しい人々は、謙虚で言葉を荒げる事はまず無い。それは諦めか、社会から押さえつけられた物が、体に染み付いているのだろうか。

いずれにせよ、少し心苦しい光景ではある。

とにかく『トラックの運転手が集まる人気のダバは、良いダバである。』と言う自説を、あっさりと覆され、意気消沈から今日は始まった。





夕方、この日はまだ日が高いうちに、宿泊するダバを決められた。ここにも、天井から吊り下げられた扇風機があり、掃除が行き届いて、ひときわ小奇麗だ。

店主の目が行き届いているのがうかがえる。

すでに食事を取っていたトラックのおっちゃん達に話かけ、ちょっとした信頼を得てから、自転車を見ていてくれと頼む。貴重品のバッグだけを持って、トラックのおっちゃん達で賑わう水浴び場に混じった。

ここの溜め水は、水苔も少なく透過度もなかなか高い。パンイチになって石鹸を体に擦り、トイレに置かれてある物と同じ、小さなバケツで水をすくい、今日1日の汗を流した。

扇風機の当たるテーブルに腰掛け、まずチャイを頼み、それから晩飯を選び注文する。

これは、いつまで経っても辛い物が苦手な僕の習慣で、辛さで痛くなった舌の鎮痛剤に、甘いチャイを使うのだ。熱いチャイだと、さらに舌が痛くなるので、冷めたチャイを飲めるように、一番最初に注文する。

このダバのコンクリートも、日中の強い日差しを受け、熱気が絶え間ない。シャッターをあげたままのガレージのように、一方にしか開かれていない建物は、風が吹き抜ける事も無く、炎天下で走行している時よりも暑く感じる。

たとえ扇風機の下にいても暑く、トラックの運ちゃん達は、いくぶんか涼しい外のテーブルで食事をしたり、和んだり、寝転んだりしている。

それでも建物内の扇風機下にいるのは、蚊対策だ。この国でも、現地の人より蚊に人気があるのは、柔い日本人なのである。

勘定の時、店主らしいチョビヒゲの男が出てきて、請求された金額を訂正し、上乗せされた代金を請求してきた。
計算違いだったのか?いやチョビのぶしつけな態度、ぼったくっているに違いない。仕方なく提示された金額を納める。最初に金額を聞いていなかった自分が悪いのだ。

しゃくにさわるが、汗もさっぱり流したので、今更他のダバを探す気分は湧いて来なかった。



日暮れまでにはまだ時間があるので、食後ダバの裏に伸びる畔道づたいに散歩に出かけてみた。

農作業の帰りであろう、農具をかかげ帰路を行くおじさん達の姿が方々に見える。すれ違ったおじさんに会釈すると、何やら話しかけてきた。

どうやら向こうに見える集落に招待してくれているみたいだ。

(写真は、リバーサルフィルムをスマフォで撮影したものです)
 

ここでは東洋人が珍しいのか、集落に着くまでには、ハーメルンの笛吹きのように、子供達に囲まれていた。

全て平屋の各家には、塀など無い開けっぴろげで、ここら一帯がひと家族のようになっている。

とある家の前を通りかかると、お年寄りまで家から出てきては、笑顔で挨拶してくれる。カメラを構えると、撮ってくれと子供に混じって、子供を抱きかかえたおじさんまで仲間に入ってくる。ファインダー越しに皆笑顔が絶え無い。

 

一軒の家に手招きされ玄関をくぐった。

土壁の匂いが、かすかに鼻をくすぐる。

 

窓からの光があまり届かず薄暗い。

裸電球は、吊り下がっているが、停電しているのだろうか。

近所の野次馬達もぞろぞろと僕に付いて来た。窓からの光が人影にさえぎられ、いっそう暗くなった部屋に彼らの白目と、上がった口角から白い歯がこぼれる。

インド人は、歯が白く歯並びの良い人が多いと常々思う。

おばさんは突然の訪問者に、何か飲むかね?と身振り手振りし、嫌がる山羊を目の前に引っ張ってきた。

おばさんが、どかっと土間にヤンキー座り(うんこ座り?)し、山羊の乳を掴むと、ビュービューと勢いよく、山羊乳が飛び出した。

ボコボコのアルミの器は、あっという間にカップ2杯分ぐらいの乳が溜まった。

そこに混じった毛やゴミを、使い古した布切れでこし、鍋に溜める。家畜の糞と藁をこねて作った燃料をコンロにくべ、鍋を温める。

そこに茶葉と砂糖をスプーンでほり込み、しばし待つ。



おばさんと野次馬が、声高らかに話す内容は、多分僕が何者で、何故ここにいるのかといったぐあいだろう。僕が彼等に伝えられたことは『日本人である』とっ言ったことぐらいだ。

言葉足らずとも、彼らはとても好意的だ。

思い返すに、日本人は意外と彼らに好印象で、良く間違われる中国人には、あまり良い印象を持っていない。陸地で強国と接する国は、海で接する以上に脅威なのであろう。

鍋がぐつぐつ沸き立ち、泡がこぼれそうになると、鍋を火から離し、泡が治ると再び泡立つまで火に掛ける。

何度か繰り返すうち、ミルクのふくよかな香りと、紅茶の清涼な香りが、土壁の匂いを押しのけて、部屋いっぱいに広がった。

まさしくチャイ(ミルクティー)だ!

それも搾りたてミルク。

注がれたチャイは、厚い素焼きの器越しにも熱く、器の淵だけつまみ持ち上げる。フーフーしながら口にふくむと、濃厚なミルクと甘さが、口の中に広がった。

うメェ〜(旨い)!先ほどの山羊のように言葉がこぼれた。

汗をさっぱり流した体に、再び汗もふき出してくる。

よく口にする、大量の水で薄められたチャイとは、コクとふくよかさが全く違う。

おばさんは、僕の飲みっぷりを見て、目を細めた。

ミルク、糞、肉、と家畜は彼らの生きて行く糧なのだと、改めてその万能さに感心する。

日本では甘い紅茶は好きでは無く、ほとんど口にしなかったが、インドにいると甘いミルクティーが美味しくてたまらない。甘すぎるそれは疲れを和らげ、リラックスさえさせる。

「お母さんダンニャバード(ありがとう)」

チャイと、家族愛を、頂きっぱなしで申し訳ない。

引き続きおじさんや子供達に村を案内してもらった。とにかくお互いがどれだけ意志の疎通が出来ているのかわからないが、とりあえず皆終始笑顔なので、それに釣られてこっちも口角があがってしまう。

小屋に置かれている農具は、どれも人力か牛力を使う物ばかりで、機械が全く無い。耕し、撒き付け、育み、収穫。ここは遠い昔からほとんど変わりのない生活を続けているのだろう。

変化のない生活に恐怖をおぼえ、日本を飛び出してきた訳なのだが、素朴さに触れ落ち着くのはなぜだろうか。

帰り際に、泊まって行きなさいとお誘いまで受けたが、太陽の昇る前に出発するつもりでいたので、迷惑がかかると思いお断りした。先を急ぐのはデリーで旅人と再会を約束していたからだ。

とどまっていれば又農耕、プチ酪農も体験出来ただろうに。気ままな旅、制約のかかる約束などするものではない。

『小さな集落の人々は、寛大でやさしい方が多い』と言う自説は、この国でもどうやら健在のようだ。

いや、あくせくしてまでお金に執着しようとする者は、都会に行くのだろう。



入国前からの情報や、カルカッタでの出来事、心に引っ掛かっていたインド人への懸念、不安、不信と、インド人をひとくくりにしていた自分の過ちに気づいた。

他の家では、ランプの光の下で、お母さんが調理するのを見せてもらった。スパイスをはかりもせず、手に掴んでは、ポイポイ煙立つ鍋にほりこんで行く。

どのスパイスかわからないが、熱されると、目を刺激し、涙腺を崩壊させ、咳を伴う物がある。その結果辛〜い料理ができる訳だが、ここにも母の味が存在するのだろう。

(ウコンで手は真っ黄色)

 

外に出るとすでに日は落ち、室内より暗くなっていた。

「ナマステ、皆さんありがとう!」次に訪れる事があれば、撮った写真を持って来よう。などと思いながら、村の人々に別れを告げた。



向こうに国道を走るトラックのヘッドライトが見える。暗くなった畔道に目をこらしながら国道沿いのダバへ戻った。

再び水浴びをした後、ベンチでトラックの運ちゃん達に混じり、再びチャイ片手にまったりした。

時折走り抜けるトラックの音以外は、虫の鳴き声と、トラックの運ちゃんの談笑が耳に届く静かな夜だった。





突然、バタバタと店の奥が騒がしくなった。

そして男の怒鳴り声が、静粛の中を引き裂く。

振り返り薄暗い店の奥に目を凝らすと、しゃがみこんだ小柄な使用人さんが、チョビに殴り蹴りされている。

パシっと平手打ちされた音や、ゲンコツの鈍い音までもがここまで聞こえてくる。しかし周りの客も、他の店員も見て見ぬふりだ。まるで何事も起こっていないかのように。

その暴行は一向に終わる気配がないどころか、仲裁に入ったと思ったデブ男も、ほうきをつかみチョビに加勢を始めた。

しゃがんでされるがままの使用人さんの背中に、ほうきの激がバシッ!バシッ!と、生々しく響く。

使用人さんが打たれまいとそのほうきを掴むと、その反抗的な態度に火がついたのか、今度はほうきを持たない方の手で、それまで以上に激しく殴る、そして蹴る。

小柄で痩せた使用人さんは、おもちゃのように床に転がった。

その上もう一人男が加わり、3人で転がったままの使用人を殴ったり蹴ったり踏んづけたり。デブは力の弱くなった使用人さんの手からほうきを奪い返して、再び背中を打つ。

そこにもう一人男が加わり4人で、そのやせた小さな使用人に暴行を加える。それでも使用人は一切手をあげるしぐささえみせず、ただ顔を覆い、されるがままに小さくなっていた。

俺は怒りが込み上げてきて気付いたらそこに走り寄っていた。

「Hey! What are you doing!?」と叫んだが無視。

「何やっとんねんコラ!!」思わず日本語叫んでいた。

それでもしかとをきめこむ奴らの前に、怒鳴りながら割り込んだ。(今こうやって日記を書いていても、思い出してむかついてくる。)

するとデブが使用人さんを見下して言った。

「こいつは奴隷(slave)だ」カチンと来た。

「So What! Ha? So What! Ha?Ha?」やっと彼らの動きが止まった。

その背後には殴られた所を抱え込んで、小さくうずくまっている使用人さん。その彼の背中にチョビが、今度はとび蹴りを入れた。状態を起こした彼が再び顔面から地面に倒れると、今度は馬乗りになって殴り始めた。

俺はとっさに使用人とチョビの間に、無理やり潜り込んで、チョビの拳が当たらないよう使用人に覆いかぶさる。力なく地面に頭を横たえる使用人さんを見て、このままじゃ死ぬんじゃないかと思った。

俺の下で小さくなり手足をしまい込んだ亀のように、じっと耐える使用人さん。日に焼けた肌の上に流れているのは、汗ではなく彼の血だった。チョビは覆いかぶさりきれていない使用人の脇腹めがけて今度は蹴る。

「その蹴り一発でも俺に入ったらぶっ殺すぞこら!」まじで、一発でも入ったらと思った。

脇に蹴りが入らないように覆いかぶってやると、今度は使用人の左足を持ってズルズル引っ張り、倉庫に引きずり込もうとし始める。倉庫でリンチするつもりなのか、そのチョビの手首を力の限りグッとつかみ離させ、胸をグッと押してやっと暴力が止まった。

「彼が悪いなら警察を呼べ!」この言葉に、誰も反応しない。

そのかたわらで、チョビはまだ収まらない様子。使用人に向かって何か吠えている。こいつは冷静でないので、後から暴力に加わった3人に「なぜ殴るのだ、彼は何をしたのだ」と聞くと「飲んだ(Drink)」と言い、何かを飲むようなゼスチャーをする。

はぁ全然訳わかんねぇーよ!おっさん。

たとえ他人の残り物を飲んだとしても、その仕打ちはあまりにひどい。

もしかすると彼は(*2)不可触民で、それ以外の者達の使う食器に、口を付けてはいけないのか?

その場はやっと治まり、チョビ以外のデブ達が戻ったテーブルに、俺もドンと腰を掛けて、財布からルピー紙幣を取り出して、そこに描がかれてある肖像を指差し「これは誰だ!何をやったか言ってみろ!!」と言った。

だがこいつらは何も答えない。

「答えてみろよ!」

「、、、、、」

「聞け!ガンジーだ!非暴力だろうが!」と言うと「時代は変わった」とぬかす。

「おめーらが勝手に変えとんやろがボケ!そうだな、お前らの国はどんどん馬鹿に変わっているFUCK! FUCKING INDIA!」と吐き捨ててやった。

ほんま胸糞わるい。

こいつらを殴って、他人の痛みを味あわせたかった。だが情けない、旅人が刺された話を思い出し、この国の事情がわからずびびって出来なかった。

むちゃくちゃチョビを殴りたかった、おもっくそ殴りたかった。



この様な事はここだけに限った事では無いのは知っているし、それにこの国に入ってから何度も「こいつは奴隷だ」と言うのを耳にしている。

お世話になった警察署でも、所長さんに「こいつは奴隷だから、マサも何か用事があればこいつを使うといいよ。」と言われた事を思い出した。

細い棒切れで家畜を追う様に、背中や尻を叩いたり、突いたりするのを何度も目にした。

その度にインド人に対してむしずが走った。

そして、そいつらの子供達でさえ、生意気に使用人をアゴで使う。そういう子供に限ってデブなので、知らぬ間にデブのガキに嫌悪感が生まれていた。

それら行為をすべてのインド人が黙認し正当化するなら、インド人なんて早く滅びればいい、ヒンデュー教なんて糞くらえだ!

しかし幸いにして信頼のおけるインド人を、数名ではあるが知っていた。

それに事が終わった後、僕の事を嬉しそうに携帯のカメラでこっそり撮っているトラックの運転手もいた。

彼も、いや彼等も多分僕と同じ思いなのだろう。

片方の口角をあげ、親指を立て彼の撮影に答えた。

もしかすると僕の考え方が、この国ではモラルからはずれているのかもしれない。奴隷は家畜であると言う常識、不可触民に触れる行為、使用人さんに覆いかぶさった行為は、彼らの目にどう映ったのだろうか。

インドにはびこるしがらみが、モラルをねじ伏せ、正しき行いに歯止めをかけるのだろうか。


それからどれくらいの時間が経ったのだろう。リンチの後、フラフラと店を去った使用人さんが、デブに耳を引っ張られながら店に連れ戻され、そのまま奥の方に引きずられていった。

使用人さんの片方のまぶたが、試合後のボクサーの様に腫れているのがちらっと見えた。

そしてダバは再び静まり返った。



野外に置かれた椅子兼ベッドの上にゴロンと体をあずける。寝るつもりでいたが、気持ちここにあらず。息をひそめ、店の裏の方に聞き耳を立ててしまう。人を殴る音やうめき声は、もう聞こえてはこない。

もし又暴力行為の音が聞こえたら、怒鳴り込んで行こうと思っていたのだ。

どう言う理屈かわからない考えだが、男なら対等に戦えと、チョビに1対1の勝負を申し込むつもりでいた。自分もボコボコにされたとしても、とりあえずそれで、俺のイライラは治さまるのだ。

何を考えると言う訳でもないが、頭が冴えてなかなか眠れない。自分の中でまだ興奮が冷めやらないのだ。

だがリンチ行為をした豚達は、スヤスヤ眠っている。

多分日常的に行われている行為なのだろう。



何時間経ったのだろうか、何度も寝がえりを打っていると、ようやくまぶたが重くなってきた。

明日も日の出前に起床できるのだろうか、、、、意識が遠のいた。



夜中の1時頃、突然雨が降り出し、僕達は否応なしに停電でろうそくだけの薄暗いダバ内へ駆け込んだ。そして板のベッドに再び転がり込む。

コンクリートの壁は、まだ熱を帯び、地面に落ちた雨は、ぶ厚い布団のように湿度をつくり、体にのしかかる。

体中の穴という穴から湧き出てくる汗。それでも蚊に刺されない様にと薄手の長袖、長ズボンを着ているのでたまらない。寝ると言うよりノックアウトだ。

数十分後電気が戻ってきて、数個の裸電球と同時に、天井のファンが力なくカタカタ音を立て回り出した。わずかな風だが汗が引いていく。

爽快だ!高原の澄みきったそよ風より爽快だ。

薄暗い中、トラックの運ちゃんと目が合い、お互いニンマリする。日本では当たり前のようにある電気が、本当に魔法のように思え再び眠りにつく事ができた。

しかし10分も経たないうちに再び停電、魔法とは儚いものである。




次の日の朝、前日に30Rと言われていたラッシーを注文する。チョビがまだ店先で寝ているのを確認し、店員に値段をたずねると15Rだという。

のうのうと寝やがってチョビめ!多勢に無勢でなければ、髪の毛をつかんで顔面を柱にぶつけてやろうかと思った。

早朝より忙しく働く使用人さん達の中に、昨日の使用人さんの姿はやはりなかった。犬のように監禁でもされているのだろうか?それとも、鎖に繋がれているのだろうか。

この国では使用人は家畜の様に扱われているのを良く見る。いやそれ以下かもしれない。集団暴行なんて、家畜は受ける事はない。



豆カレー、チャパティ、ラッシーとバナナをお腹に詰め込み、太陽が顔を出す前に自転車をまたいだ。

左手には昨日チャイをいただいた村が、朝靄にかすんで見えた。

 

今日もあの村では昨日と同じ一日が始まるのだろう。

振り返るとほとんど視界から消えかけているチョビのダバが見えた。あそこにも昨日と同じ一日が始まるのだろう。



自転車を走らせると、他にする事もなく色々昨夜の事を思い返えした。

もし、僕もチョビと同じ環境で生まれ育ったら、やはりチョビの様になっているのだろうか。

ガンジーの名を口にした時『ガンジー?奴はイスラム教徒をインドに野放しにした原因だ。』と言う言葉を思い出した。

 

なるほど、そういう考え方もあるのか。

そういえば、彼は同胞のヒンドゥー教徒に殺されたのだった。

晩年、裸の少女と添い寝する習慣を持っていたともいうので、聖人君子(マハトマ=偉大な魂の意)と崇める人もいれば、卑下する人も多いようだ。

やはり一つ所に収まらない、一癖も二癖もある興味深い国である。

朝靄はいつしかきれ、日の光を背中に感じはじめる。

今日も酷暑であるのは、間違いなさそうだ。





~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(*)ダバ

レストランのようなものである。

店先には、ベッドぐらいの高さのテーブルが置かれているとこがあり、食事の時はそこに座って食べる。

夜はそこで寝る事も出来る。

暗黙の了解で、そこで飯を食えば、無料で寝られる。

(この写真は、チョビのダバではない。テーブルはだいたい140cmほどなので足を延ばして眠れない。チョビの写真見つけたら、掲載します。)


(*1)
この頃、騙してくるインド人に疲れていた。

悪いインド人は、向こうから近づいてくる。その向こうに優しきインドの民がいるのに。

(*2)不可触民(アヴァルナ)
ヒンドゥー教(国の約8割を占める)における身分制度カースト(語源はポルトガル語。ヴァルナ・ジャーティと現地では呼ばれる)にも組み込まれない、最下位の人々の事をさす。

バラモン(司祭)、クシャトリヤ(王族、武士)、ヴァイシャ(一般市民)、シュードラ(奴隷)

奴隷より下の身分とされ、触る事、見る事さえ汚れると差別された。

1950年、憲法17条により、差別用語は禁止される。

第10代インド共和国大統領に、最下層出身者のコチェリル・ラーマン・ナーラーヤナンが選ばれた。しかしヒンドゥー教至上主義のインド人民党は反発。
差別はまだまだ根強く残っている。


不可触民―もうひとつのインド

 (知恵の森文庫) 山際 素男 (著)





輸血の必要な患者が「アヴァルナ(不可触民)の血を入れるなら、死んだほうがましだ!」と叫んだ。

「アヴァルナが我々の村を歩くなら、裸足でなければならない。」

「アヴァルナが、この神聖な祭りに参加するな!」とリンチされ殴り殺された。

これらの事は、未だに続いている。

 

(この写真見るに、ゲスなのは男だけでなく、女警官もなんだな。インドで何度も警官の暴力を見た事がある。)

 

 

この夫婦は、死ななかっただけ幸運??

 

 

 

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2010/5/24の日記です

 

 

ニューデリー駅前のパハールガンジは、メインバザールとも呼ばれ、安宿が軒を並べる。
サダルストリート、カオサン、タメルなどと並ぶ、アジアでのバックパッカーの交差地点であり、ヒッピー、サブカル時代以降の旅行記にもよく出て来る。

空港から地下鉄が乗り入れ、タクシー強盗に合う旅行者は少なくなったものの、日本人旅行者は相変わらず駅前に点在するボッタクリ旅行社の良いカモだ。
ズボンの後ろポケットから、財布をチラ見せさせながら歩ける。

そんな国からの、生まれたてなのだ。

(余談 : 2017年、わけあってバラナシの日本人宿に泊まった。春休みで学生が多かったのだが、その6割が法外な値段でツアーを組まされていた。
携帯電話を開けば、情報が簡単に集まる時代。
学びもせず、ライフジャケットなしで、大海原に繰り出すようなものだ。
そう考えれば、ボッタクリではなく、商売上手の波にのまれるのは仕方ないと言えないかな。)

オールドデリーのような庶民の香りは少なく、親しみが持てる町とは言えないが、なんど訪れた事か。ここを拠点に右に行ったり、左に行ったり、上ったり、下ったり。長期滞在はないが、ホテルと、行きつけのラッシー屋は決まっている。

ここではうるさく、ほこりっぽくなる前の、早朝の散歩が日課となっていた。

東の空が明るくなり出す頃、まず清掃員が掃除を始める。
カーストが廃止されても、低階層の人々は、代々受け継がれた仕事に従事している。
彼らの黙々と行う労働の姿は、体たらくな自身の生活を改めさせてくれる。

そんな折、チャイ屋が通りに立ちだし、チャイをすするおやじ達の小さな井戸端会議が通りのあちらこちらで始まる。

夏至を来月にひかえ、日の光がすでに街まで届いている。
清掃員が過ぎ去った頃、露店のおばちゃん達が、大きな荷物を抱えやって来る。

パラパラと仕事場に向かう人影が現れ始めると、送迎のリキシャがやってきて、小さな子供達を集めだす。
幼子の座席は、鉄格子で囲まれており、奴隷商人の輸送のようでもある。
しかし、そこに乗り込むちびっこ達(幼稚園児ぐらい)は、真っ白なボタンシャツの制服と、7、3に分けられた髪、ピカピカのカバンが、なんとも愛らしい。

(もっと小さい子供は、ピカピカの恰好でほんと可愛い)

 

その横を、黒ずみほころびのあるシャツをひっかけた子供の兄弟が、ゴミ収集袋を片手に行き違う。
このコントラストがインドである。

そのころ、おばちゃまの露店が始まりだす。野菜や、果物、朝からバングル(ブレスレット)を広げるおばちゃまの姿まである。

お客とのやり取りは、見ていて面白く、会話のない日本のスーパーが味気なく思えて来る。

混雑する細道の八百屋で品定めをしている時だった。

右後ろポケットの面ファスナー(マジックテープ)の、ビリビリという感覚が伝わってきた。
とっさにポケットに手をあてると、他者の手がそこにあり、振り向くと子供達が蜘蛛の子を散らすように逃げた。
ポケットを触っていた子供は、人混みに阻まれ逃げ遅れたので、一瞬で追いつき捕まえた。
「ノーノー、俺じゃない!!」
いや、お前だし。
「あいつらだ、逃げたあいつらだ!」
いや、めちゃくちゃお前だし。
周りの人に「コールポリス!コールポリス!Pickpocket」と言っても通じていないのか皆「あなた達なにじゃれ合っているの?」って感じだ。

くそ!腕や腹を殴って来た。蹴りは金的を狙っているのか?肩には一眼レフがぶら下がっているので、こちらは大きな動作が出来ない。

少年の体を押し、倒れないようにと出てきた足を払って倒し、マウントポジションを取った。
いいかげん、誰も警察に連絡しない。
むしろ珍しい物見たさに、人が集まってくるばかり。

そういやトラックに追突され、ぶっ飛んだ時も、彼らの行動は同じだった。
まず、好奇心という野次馬精神が行動を支配するようだ。
全く観念しない少年は、大事な品物だと感づいたのか、カメラのストラップに手をかけてきた。
その手を振り払い、いい加減に観念しろと、金的狙いのパンチのお返しにと往復ビンタを与える。

子供相手だ、流石にゲンコツは気が引ける。
いい加減「コール、ポリス」と言っても、誰もアクションを起こさない。
ポリスぐらいは、分かるはずなのだが。
すると、野次馬の中からおばちゃんが出てきて、僕に怒鳴りかけ、服や腕を引っ張り出した。
「私達の子供を、外国人から助けるのよ!皆手を貸して!」
とでも言っているのか、その言葉につられ、2人のおばちゃまが加勢に入った。
いや彼はスリなんだと叫んでも、伝わるはずも、聞こうともしてくれない。
体制を崩したところで、子供は股下から抜け出し、人混みに消えていった。

子供が居なくなってからも、最初のおばちゃんが僕に怒鳴りつける。
そして、この男は私達の子供に暴力をふるっていたと周りに振りまいているようだ。

怒りなどないものの、おばちゃんに現状を叩きつけてやろうと、英語ができる人を探して、
「あの子供はスリだ。僕は今財布を盗まれて、全てのお金15万ルピーを失った。
これから私は、どうやって過ごせばよいのですか?私のホテル代も、食事代も帰国の飛行機代もすべて子供達に奪われてしまいました。」
と、訳してもらった。
すると、鼻息の荒かったおばちゃんが、一瞬目を見開いたかと思うと、そそくさと人混みに消えていった。

まぁ、いきなりあの光景を見ると、やっぱ大人が子供をいじめているようにしか見えないわな。
ちょっと嘘が過ぎたかな、財布は取られてはいないのだから。
それにしても、何とわかりやすい、おばちゃんの表情の変わりよう。
まるでインド舞踊のようだった(インドの舞台では、目の表情で感情を表現する事が多い)。
気づけば太陽は建物の濃い影をつくり、ひたいにはうっすら汗が浮かびはじめていた。

とりあえず目の前のチャイ屋に1杯注文する。
朝のチャイは、2杯目も美味しい。
気づけば、香(こう)の香りが鼻をくすぐっていた。

通りの店は、シャッターを上げ、商売繁盛の朝の香を焚き、祈りを始めているのだった。
すでにバイクや、リキシャ、トゥクトゥクも走り出し、クラクションと埃が通りを覆い始めている。

今日も暑くなるのであろう。



 

露店から2種類のバナナを買い込み、ホテルに戻った。

フロントにいたオーナーに、先ほどあった事を、さっそく話してみる。


「あぁ、この界隈にいる子供のスリ集団だよ。」と驚く素振りもない。
そして、ここの宿泊客もたまに被害にあうよと、話しはじめた。 

それは数年前、大学の休みを利用して初めてインドに来た日本の女子大生だったという。
彼女がタージマハルや、ラジャスタン行きのチケットを取った矢先の出来事だった。
 
露店に座っていると、子供達がやってきて、一緒にじゃれ合って遊んだ後、パスポートをはじめとする貴重品が無い事に気づいた。
その後、警察に行ったり、日本大使館に行ってパスポートの申請をしたりと時間をとられ、結局どこにも行けず、ずっとこのホテルにいて泣いていたと言う。

ゴミ袋をかかげた兄弟より身なりは良く、逃げた子供の中には、キャッキャッと笑っている奴もいた。
奴らは落ちている小石を拾い、ポケットに入れるぐらいにしか思っていないのであろう。
平手打ちはしたけど、東洋人旅行者をなめんなよ!と、トラウマになるぐらいビンタをかました方が良かったか。 

もし、捕まえて警察に突き出したらどうなるの?と聞いてみると
「うわまえを警察に渡したら、ガキ共はすぐ釈放だ。インドで最も厄介なマフィアは警察だよ。」
と笑いながらオーナーは答えた。
そういや、バイクで警察に捕まった時も
「6000ルピーの罰金を払うか、3000ルピーを私にギフトするか。」と言われたっけ。

怒ったり、笑ったり、奔走したり、そんな事にいちいち翻弄される自身も、まだまだ生まれたてのようです。

 

 

 

メモ~~~~~~~~~~~~~~~~~~


PaxSafe、バッグを覆い、何かにくくりつける事も出来る優れものです。

サイズは色々、この商品に何度安心をもらった事か。

(ワイヤーカッター持って来られると、一発アウトだけどね。そういや、旅中にもっと太いワイヤーをカットされて、自転車パクられた事思い出したムキームキームキー)

 

 

 

 

定番の、肌身はなざずの貴重品ポケットです。

それと、ズボンにジッパーがついていると、少し安心度は増しますニヤリ

 

太さ1cm以上はあったのに、ワイヤーカッターで一発ゲッソリゲッソリゲッソリゲッソリ

イランで強盗に襲われたけど自転車だけは生き残ったのに、さよなら白兎馬号ショボーン

 

 

 

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2005/3/28の日記です。

 

 

昨日からの雨は、一向に止む気配を見せなかった。
傘のない僕は、雨具を深くかぶり、朝食を求め街をうろつくが、場違いなところばかり徘徊した。   

それにしても土地を埋め尽くすようなビル群。日本のそれらと違い、個性的なデザインがなされている物も多い。

西欧の気品をかもし出す美しいビルや、遊び心のある建物も目にする。

僕のイメージする中国現代建築が、東方明珠電視塔(オリエンタルパールタワー)だったため、驚いた。

 


(『こんな建築が許されるほど、中国は自由な国である』by Communist Party ネット上より拝借)

 

お年寄りはまだ着用していると思っていた人民服も、目にすることはない。
若者の中には、ジーンズを腰までずらし、髪を染めたりと、アメリカのまね事が全てにクールと、日本と何ら変わりない。 

ここにはもう、想像していた中国はなかった。

日本の漫画キャラクターや、サンリオ系グッズもよく目にする。
時々、日本ではと錯覚するが、言葉が通じず、街角にはゴミが投げ捨てられている。

それにしてもにぎやかで活気がある。
日本に来た旅行者が「サムライもハラキリもあ~りません!
スシも毎日食べません。」と言っているステレオタイプだな、僕は。

発展の著しい上海に来たのだから、もう少し居座りたいと思ったが、ボロ宿の人間はいぜん不愛想で、今日もシングルは満室だと言い張る。
だいたい客の姿を見た事がないぞ。
夜中も部屋の鍵がほぼ全てロビーに掛ったままだ。
このうっとしい雨も、受け付けの娘達が降らしているのではと思えてくる。


今更雨の中、安宿を探す気にもならないし、ここを出るならいっそ次の目的地に行ってしまえと、朝の10時には小雨の中、進路を西に自転車を走らせた。

 ガイドブックに頼るのは、全てお膳立てされた団体旅行者と同じだ。
周るコースも、見る物も皆と同じで、テレビの旅番組で見た光景をたどるだけ。
旅ぐらい気ままにさせてくれ!

と、ガイドブックは持たずにやって来たのだが、安宿、旨い飯屋、レートの良い両替所、移動に便利な地図、それら全ての情報が手っ取り早く入手出来るのだろう。
現地の相場も記載されており、支払いで駆け引きなどせず事が進むのは、なんて楽なんだろう。
みんなと歩調を合わす事にどうも邪鬼な僕は、旅を、いや人生を相当無駄に、困難にしてきたのではないだろうか。

確かに上海は、想像とはかけ離れていたが、昔テレビで見た通勤自転車のラッシュは健在だった。
バス、タクシー、乗用車、バイクそして自転車が無秩序に朝の交差点で入り乱れ、隙あらば幅寄せする。
電気バイクが多いのには驚いた。環境問題最前線の西側ヨーロッパでも、普及しているなんて聞いた事がない。

とにかくラッシュは半端なく、それが上海郊外まで続いているのだ。
僕はそれらの流れにのみ込まれながら『やって来たのだ、ここはもう異国なのだ!』となぜか笑いがこみ上げてくる。
旅が始まった事を体で感じている。
嬉しいのか、期待に胸を膨らませているのか、周りは渋滞で眉間に縦シワを浮かべている人も多いと言うのに、ヘラヘラと笑いが止まらない。 

中国の主要道は広くて走りやすい。

日本とは違い、車道の横に十分な自転車と歩行者のスペースが取られている。
それが理想的に都市と都市を結んでいる。
土地は全て共産党の物なので、道路建設は自由に行われるのだろう。
軍隊も人民のものではないので、財産、権利、命までも踏倒せる。

しかし、良き指導者が立てば、国会でのグダグダなどなく、邁進できるのであろう。(銀河英雄伝説の見すぎかな?)


都市郊外に出てからも、ビルや工場の建設ラッシュが一向に途切れる事はなかった。これがこの国全土で行われていると思うと、中国製品が世界に出回っている事がうなずける。

この先この国は一体どこまで発展してゆくのだろうか。隣国日本の行く末が不安になる。

自転車の横をまたトラックが資材を満載にして走り去る。
そのたびに細かい砂を巻き上げ、目に入り、喉も痛くなり、鼻クソもたまる。これが本場で味わうタクラマカン砂漠の黄砂なのかと、なぜか楽しくなる。

覚えたばかりの片言中国語は、発音の悪いせいか役立たなかったが、人々は親切で、なんとかジュン君の住む蘇州市(そしゅう)に辿り着いた。

もらった住所と電話番号の書いた紙を片手に、公衆電話から連絡を入れる。


電話に出たのは女性だった。中国語をたたみ込むように浴びせかけられ、対応できないこちらを怪しく思ったのか、あっという間に電話は切られた。
『やばい!ここまで来たのにジュンに会えないのか』

少しばかり時間を置いてから、もう一度かけなおすが、また同じ声の女性が出た。
切られてはまずいと「ジュン」と「朋友(友達)」と言う単語を、あらゆるイントネーションで連呼する。
すると女性は、ジュン君を呼びに行ってくれた。

とにかく中国語の発音は狂気的に難しい。たった5つの母音しか持たない日本語に対し、中国語には37種類あり、さらに子音と交わると400をこえるイントネーションになるとか、そんな話をフェリーで聞かされた。

日本人は英語の聞き取りが苦手だが、中国人は聞き取りが強いのは、この為だろう。
その上、中国では子供から漢字博士なのだから頭が下がる。

自分の場所がわからず、通行人を呼び止め電話に出てもらい、ジュン君に場所を告げてもらった。
嫌な顔せず、引き受けてくれた通行人さんに謝謝。

数十分後、高速道路高架下の繁華街まで、彼が迎えに来てくれた。
待ち合わせた場所は、まだまだ古いビルがひしめきあう下町で、中華料理の油を熱した香りが、所々で鼻をかすめる。

ジュン君は日本での留学を終えた中国人で、日本での就職が決まらず、中国で日本語を生かせる企業を見つけるべくフェリーで帰国途中に僕に捕まった青年だ。

フェリーで彼と話をしていると、僕が今から走る道近くに彼の家がある事が分かり、彼が僕を家に招待してくれたのだ。

彼の家はマンションの一階にあった。家族が総出で迎えてくれ、夕食にはお母さんがテーブルせましと、ご馳走を並べてくれた。
(この辺りの写真はいずれ貼り付けますね。)
大皿にもられた料理は、どれも見たことのない物ばかり。
それを長く先端が細くなっていない箸で、皆で取り合う。
僕は手を合わせ、お母さんに会釈してから「いただきます」と日本語で感謝する。
その言葉の意味を、ジュン君は皆に説明しているようだ。

味も初めて味わうものばかりで、これが美味しく米が進む!
これが家庭の味かぁ、お母さんありがとうございます。

僕の電話に出たのはお母さんで、その電話をいたずらだと思ったと、食卓は和む。
皿洗いぐらいしなければと願い出たが、そんな事お客にしてもらったら示しが付かないと断られた。

就寝はジュン君の部屋に、お邪魔させてもらう事になった。
布団を用意してくれようとしたが、僕はマットと寝袋を持っているのでとお断りして、彼の部屋の片隅を借りる事にした。

彼のベッドの下には美しい模様が描かれた、小さいバケツぐらいの壺が置かれてあった。彼が花をさすように思えない、でも使われているようでもあった。
「それ一体何に使うの?」と聞くと
「ここにおしっこするんだよ」と言う。
「なぜトイレに行かないの?」部屋が臭くなるだろに。
「冬の夜は寒いだろ、わざわざトイレに行くのは大変だ、だからこれを使うんだよ。これはこの辺りから北の方の文化さ。北京では皆使っているよ。」と便利な一品を誇らしげに語った。

この辺りの冬は、トイレに行けないほど寒いのだろうか。的をしぼりにくそうな女性もこの壺を使っているのだろうか?
近寄ると、少し液体が見えた。
臭ってきているわけじゃないが、機密性の高いこの部屋では、ここち良い物ではなかったが、これも異文化交流である。

電気を消した彼の部屋で、お互い横になりながら話した。
彼は言う「なぜ仕事辞めて旅をするのか、そんなの無意味だよ。お金貯めて結婚すべきだ!」と。
討論を試みるが、言い負かすほど旅が好きというわけでもなく、自身すら納得させる答えを持っていなかった。
「旅の意味かぁ」
外からの街灯の光に、うっすら浮かび上がる天井をぼんやり見た。

日本では友達が出来なかったとつぶやく彼。
以心伝心、暗黙の了解で調和を大切にし、思った事をぐっとこらえる日本の国民性。
たわいもない事でも自分の意見をどんどんぶつけて来ては、話がスムーズに進まなくなる。そんな彼を受け入れるのは、少し難しい気がした。
これが大陸の人間と言うものなのか、それとも彼の性格なのか、いや離島国日本が特別なのかもしれない。

明日はジュン君が蘇洲を案内してくれると言う。
彼の話によると寺の拝観料はやたらと高い。こちらの平均日給の60%ぐらい取るという。
そう言えば、日本でも観光地では入場料を取っているが、一体何にあてているのだろう。
一般のお寺は、一切入場料を取っていない事を思うと、維持費にしては高すぎるではないか。税金も免除。
日々糧となるの托鉢など、聞いたことがない。

僕はこの辺りの朝市も見たいと、付け加える。

明日はゆっくり出来そうだ。ありがたい、足がすでにパンパンだったのだ。
自分の非力を、情けなく思う。

現地の人の家に泊まると、その土地の習慣や風習、食べ物など文化に触れられる。
これは全く飽きさせなかった。何より彼らを身近に感じられるようになり、彼らを理解したくなる。
このような恵まれた機会が、この先もあるのだろうか。
とにかく彼には感謝だ。
そしてお互い話疲れ、眠りについた。

夜中の2時頃、ごそごそと音がしたので目が覚めた。彼がベッドから起き上がる音がしたかと思いきや


「ジョジョジョジョジョジョ」


壺の中で泡立つ音が、暗闇に響き渡った。


「ビョ、ビョ」


最後の一絞り

「ビョ!」


の後、彼が再びベッドに沈む音がし、静寂が戻った。

暗闇での一連の流れ、手慣れたものだ。
しかし、おつりは帰って来ないのだろうか?
手を洗わないのが作法なのか?

中国4千年の歴史が生み出したこの便利グッズ。

残念ながら日本では絶対に流行らず、寒い夜は相変わらず寒さに凍えながら、トイレに駆け込むのであろう。

 

 

 

 

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