前回は、茨城が生んだ日本一選挙に強い男・中村喜四郎衆院議員が、
投票率が上がらない要因について、
「小選挙区比例代表並立制そのものにある」と、
説いていることをお伝えしました。
今回はその続きになりますが、
まずそれまでの中選挙区制を廃し、制度を改めることによって、
当時の国会はどんな衆議院を作ろうとしたのか…。
つまり制度改正の狙いと前提についておさらいしようと思います。
中選挙区での最後の総選挙となったのは平成5年の第40回衆院総選挙です。
この第40回は、宮澤首相が内閣不信任決議案の可決を受け、
衆院を解散したことにより公示された選挙で、「嘘つき解散」と称されます。
平成5年5月31日、宮澤喜一首相がテレビ番組「総理と語る」の中で、
田原総一朗氏からの鋭い質問(今国会中に選挙制度改革をやるんですか?)に対し、
「(今国会中に選挙制度改革を)やります。やるんです」と公約します。
私もこの番組を見ていて、問題のシーンを覚えていますが、
田原氏の気迫に押され、返事を誘導された感じだったかな…?
「やります。やるんです!」と、語気は強いが、
どこか自信なさげな様子を醸し出していました。
案の定、宮澤首相は、通常国会内に自民党内の意見をまとめきれず、
次の国会へ先送りしました。
まずこれが嘘つきと言われる所以。
このような経過に野党が猛反発します。
通常国会閉幕直前に社会党・公明党・民社党が共同で内閣不信任決議案を提出。
採決では自民党内からも造反者が続出し、
内閣不信任決議案は可決され、解散に至ったわけです。
与野党が成立を推し進めていた「選挙制度改革」は、
翌年、細川内閣によって「政治改革4法」として成立しますが、
一つ目は小選挙区比例代表並立制導入を柱とする公職選挙法の改正案。
次いで政治資金規正法改正案と政党助成法案。
そして衆院選挙区画定審議会設置法案、以上4つ法案のことを指します。
国会では昭和63年のリクルート事件をきっかけに、
「見返りを求めない、賄賂性のない献金」を…。という議論が活発になり、
政治資金の規制強化が議論されるようになりました。
しかし企業・団体からの政治献金の規制を強化すると、
自民党・社会党・民社党の政治資金が枯渇する懸念があるため、
政党助成金制度をセットで導入する案が自民党から主張されました。
自民党内ではそれに加えて、
同一政党内の議員同士が討ち合いとなる衆議院の中選挙区制を
「地元への利益誘導により当選を図ろうとする腐敗の元凶。」とし、
小選挙区制を導入すれば同じ政党候補同士の争いは起きず、
また、投票者の半数近くの票を得なければ当選できないので、
特定利権より広範な市民の利益が優先されるようになると説きました。
さらに、復活当選による救済の可能性と、
少数政党の一定の議席が見込める比例代表並立制とすることで、
与野党逆転、政権交代が起きやすい制度であると主張し、
野党の同意を取り付けます。
「政治改革4法」は与野党概ね合意の上、
この通常国会で可決される見込みとなっていました。
「政治改革4法」の狙いを一言に要約すると、
「お金のかからない選挙を実現し、金権政治を排する。」
ということになろうかと思います。
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平成3年3月以降、バブル経済が崩壊し、
間もなく日本は経済的には暗黒の時代を迎えます。
そして平成4年8月。
金丸信・自民党副総裁が東京佐川急便から5億円の闇献金を受けていた事件が発覚。
国民の政治不信は頂点に達し、
国民の関心とマスコミの追及は「政治とカネ」に凝集されていました。
宮澤首相率いる自民党はもはや死に体でした。
1日も早い政治改革法案の成立が声高に叫ばれる中、
平成5年の通常国会での「政治改革4法」の成立が見送られ、
宮澤首相が衆議院を解散すると、
羽田孜、小沢一郎氏ら34人が自民党を離党し、新生党に参加。
さらに23人、計57人が自民党を離党。
その後、武村正義、鳩山由紀夫氏ら10人が新党さきがけに加わります。
そして公示された中選挙区制での最後になる平成5年の第40回衆院総選挙は、
前年の第16回参院選で議席を獲得した日本新党と、
選挙直前に自民党から離党した議員らが中心となって結成された
新生党や新党さきがけが躍進します。
自民党は、党分裂後の突然の総選挙であったために、
新生党や新党さきがけに移籍した、
前職の穴を埋める刺客候補者の擁立が間に合わず、
単独過半数を獲得することは出来ませんでした。
結局「政治改革4法」は、日本新党と旧羽田派である新生党が中心となり、
加えて日本社会党、公明党、民社党、新党さきがけ、社会民主連合、民主改革連合と、
非自民8党が連立して誕生した細川内閣が翌年に成立させることになります。
平成6年1月4日、細川内閣最初の通常国会開会に先立ち、
与党各党が議員総会を開いて政治改革実現の決意を固め、
細川首相は自民党の改革推進派議員にも呼びかけて決起集会を開きます。
河野洋平・自民党総裁も細川首相とのトップ会談に応じ、
平成6年3月4日に成立。
実に5年以上の年月を経てようやく政治改革は実現しました。
「お金のかからない選挙を実現し、金権政治を排する。」
その大義名分に対する土台が出来上がったということでもあります。
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しかし今になってみると、
この法案成立の一連の経緯は政治家が自らの自浄能力を見せつけるため。
つまりパフォーマンスが優先されたものと、
そんな、うがった見え方ができなくもない…。
バブル崩壊という暗黒経済の最中、
特に当選回数の少ない若手にとって金を集めるのは難作業であったはず。
また中選挙区制は地元への利益誘導も必要だし、
後援会の維持にはたくさんの秘書を雇う必要もありました。
それが小選挙区になれば、選挙区は狭いし金銭的に楽。
企業献金が禁止ということになれば、不景気の中集金活動もしなくてよくなる。
その分労せず、政党助成金がいただけるのであれば言うことなし…。
つまり…。
この選挙制度改革は、改革という名を借りた、
代議士自身と既存政党による、
「自分たちにとって都合のいい選挙制度のカスタマイズ」だったのではないか…。
私にはそう思えてなりません。
実質この法案成立後、
国民と政治との距離がかなり遠のいたのではないかと私は感じています。
中選挙区での同志討ち合いというのは、
もちろん当事者同士もし烈な戦いを繰り広げていたわけですが、
巷の支持者もまた、熱心に候補者のために汗をかいた時代でした。
地元の催事には、支援者が我先にと秘書や議員を連れ歩きました。
金回りのいい中小企業の社長連は率先して献金を出したし、
運動員を方々から集めて選挙を盛り上げました。
その代わり政治に対して、行政に対してたくさん陳情もしたけど、
当時は「政治に参加する」人間がたくさんいたわけです。
ところがこの改革によって、
政治活動や選挙運動を主導する役が「国民」から「政党」に代わってしまった。
小選挙区比例代表並立制による総選挙もすでに7回を数えますが、
この制度で当選するためには、
まず政党公認を得ることが先決です。
もちろん建前では無所属から勝ち上がる道もありますが、
中選挙区制に比べると、その道のりははるかに険しいものになりました。
投票率が上がらない要因として小選挙区比例代表並立制に問題があると、
中村喜四郎氏が指摘したことは実に光明ですが、
この制度が一朝一夕にひっくり返ることはあり得ません。
しかし、
政党が選挙区の候補者や比例順位を決める予備選挙を行うことや、
昨日今日に設立された新参政党でも候補者を立てられるような、
比例区への立候補条件の緩和。
さらには政党公認に優位な運動形態を改めた、
公平な政治活動と選挙運動のルール設定等。
マイナーチェンジができそうな項目はたくさんあります。
最近国民民主党が、
山尾志桜里氏に比例東京の名簿順位1位を授けると発表しましたが、
都内の地方議員や、党勢拡大のため骨身を削った一般人の中に、
その立ち位置を狙っていた人がいたかもしれない…。
政党の、一般党員を無視したこのような人材配置が
じわじわと国民と政治の距離を遠ざけているのではないでしょうか。