長らくブログをお休みしてしまいました。
理由は自分の父親が去年8月に入院したためです。
入院の原因はガンでした。
その時点で余命1ヶ月以内の宣告をうけたのです。
さすがに衝撃を受けました。

すでにガンは色んなところに転移しており、また体力が落ちていたことから、手術で取り除くことすら出来ませんでした。
手立てはなく、あとは死を待つしかない状態。

しかし余命一ヶ月の宣告を受けていたにもかかわらず、1ヶ月、2ヶ月と生き続けました。
医者はある程度最悪のことを想定して、1ヶ月以内という余命宣告をしたのでしょうが、2ヶ月、3ヶ月、そして年が開けました。年が開けた時点ですでに5ヶ月が過ぎていました。ちょっとした奇跡?だったのかもしれません。

ひょっとしたら、まだあと何ヶ月か生きることが出来るのでは?と思っていましたが、先月1月中旬のことです。
入院中、父親は、よく家族の差し入れを食べていましたが(少しづつ食べる量は減ってはいましたが)、食べなくなり、そして、目を開けることも出来なくなりました。ほとんど眠っているような感じです。
そんな状態で6日目、私と弟が、病室に見舞いに訪れた約30分後、父親は息を引き取りました。
私と弟が来るのを待っていたようにも思えます。

母親は泣き崩れ、父の遺体にすがりつきました。

私は案外冷静だったように思います。
ただ、もう少しなにか話しをしたかったと、悔いが残ってます。
最後に目を合わせ、話した言葉は

私:「ボチボチ帰るよ」
父:「気をつけて帰れよ」

この会話が最後です。




やはり寂しいものです。今まで当たり前のようにいた父親がいなくなるというのは。

南無阿弥陀仏・・



いきなり重い雰囲気で申し訳ないのですが、戦国時代、父親、夫の死はどのようなものだったのでしょう。

豊臣秀吉が死んだ際、奥さんの北政所は側室、淀君と対立して徳川方として働いたように言われていますが、最近の研究ではどうもそのようなことはなかったとあります。

信長は父親、信秀の葬式の際、焼香の灰を投げつけるということをやらかします。
私は葬式の際も泣かず、悲しみを見せるようなことはしなかったのですが、これは悲しくなかったわけではなく、抑えていました。そういう自分の姿を見せたくないという気持ちからです。もうすでによい大人ですし、特に醜態をさらすことはなかったですが、当時、信長は10代。
想像ですが、悲しみを誤魔化す行動だったのではないでしょうか。

虐待的なことを受けた子供でない限り、戦国時代においても現代においても父親・夫の死はやはり悲しいものだったのかなと思いますね・・・。






食料と輸送に関して

長篠合戦の武田軍の食料とその運搬に関して、このブログでも書きましたが、それをまとめたページです。
ブログでは兵糧のかわりにオニギリとしましたが、上のページでは米五合として計算しました。

上のページには書いていませんが、当時、米の重さや値段は現在のように統一されておらず地域によって差がありました。これを考慮しだすとさらに面倒です(笑)




一万五千の兵を従え、いざ長篠へ(おにぎり何個要るの?)  で長篠の武田軍の兵糧に関することを書きましたが、ちょっと史実を見てもう一度。

勝頼の出陣が4月5日。

府中から諏訪・高遠にて全軍集結し南下。

4月21日長篠城包囲。
落城寸前にまで追い込む。

5月21日・織田・徳川軍と交戦し敗戦。

約50日間。

1万5千の兵がもしいたとするなら、前回のエントリの通りで膨大な食料を必要とし、それに比例して輸送部隊も多く必要となる。
実際の合戦では敗戦しましたが、仮に長篠を落城させていた場合、退却の日数分の食料も計算する必要があり、最低でも2か月分の食料が要ると思える。
前回それに必要な食料、輸送に必要な馬の数をだした。馬だと6千頭近く必要になる。
もちろんこの6千頭は2か月分の食料を一度に戦地まで運ぶ場合の話。


仮に2千頭用意できれば3往復(諏訪・長篠間)。


食料・武器弾薬が十分であれば、輸送をいかにスムーズに行うかは、大兵力での戦いにおいてかなり重要なことであったのではと想像がつく。

ちなみに現地調達(乱捕り)をどれだけ出来るか?商人からの米購入なども含めるとちょっと複雑になる。