武田勝頼は4月21日(旧暦)に長篠城を包囲し、5月8日に城を攻撃し、5月21日に有名な長篠合戦となるわけですが、このエントリではこの戦いに必要だと思われる食糧について書いてみたい。

分かりやすくするために、コンビニのオニギリを例にしようかと(笑)

勝頼本隊は4月5日頃に出発したようである。

ただ武田全軍が集結したのは諏訪と考えられる。諏訪から南下し長篠へ向かったとして、その距離は約100キロである。
ちなみに織田軍が岐阜から長篠までこれも約100キロ弱の距離。この距離を織田軍は約5日間で移動している。(信長公記より)
武田軍は山があるため、行軍速度はそれよりも遅かったと考えられ、余裕をみて諏訪から長篠まで10日というところか。そして長篠城を包囲していた期間は約一ヶ月。
これらのことから推察するに、出陣・合戦・長篠落城・そして退却まで約2ヶ月、余裕を見て3ヶ月間、を作戦期間として想定していたのかな?と思う。

では長篠を落城させるまでに必要な食料を、それを基準に計算してみよう。
当時の兵が1日に食べるオニギリを6個としてみよう。

6×1万5千=90000個 作戦期間が2ヶ月の場合、×60となり、なんと5400000個のオニギリが必要になる。

では540万個のオニギリの重量ですが、1個約100グラムとすると54万キログラム。540トンということだ。
2トントラックだと、270台の車両が要るわけですが、当時は馬。
馬が積載できる量を90キロとしてみる。ちなみに馬は無理をすれば100キロ以上でも可能であるが、バテルのも早くなるため、100キロ以下の荷物を載せるのが普通だったようだ。

ここから計算をすると必要な馬は54万÷90=6000頭。最低限食料を運ぶ馬は6000頭必要となる。
もちろん、それだけの馬を揃えることはできなかったと思えるので、荷車の利用や人が直接担ぐ必要がでてくる。
馬、人足が足りない場合は、中継となる城・砦などを利用し何度か往復させる必要がある。
案外大変だ・・。


そして馬を利用するとなるとその馬の餌も必要になることとなる・・。

これはあくまで最低作戦期間そして1人あたりの食料をオニギリ6個としている。

当時はそんなコンビニオニギリはないので、兵には1日5合~7合程度の米、塩、味噌、食料が支給されたらしい。なので実際には輸送に必要な馬ももっと多くなる。食料に関してスポットをあてているが、武器輸送も必要だ。


最後にコンビニオニギリにかかる費用ですが、一個百円として上の例だと5億4千万円となります(笑)





先週からさらなる体力アップを目指して山登りをはじめました。

そして本日、鈴蘭台より菊水山山頂を登った後、鍋蓋山へ。


しかしこれが思った以上にきつかった・・・・。


戦国時代の合戦データベース-菊水山

傾斜もきつく、場所によっては岩を登るようなところもありで・・・
あとで調べたら、このコースは難所で知られるところだったようです・・・・・。

山を登る際には事前調査が必須ですね。


戦国時代の合戦データベース-天王吊り橋

上の写真は菊水山を降り、鍋蓋山を上る途中にある天王吊り橋。


結果として山を二つ登ったのですが、相当に体力を奪われました・・・。


この山を登り終え、通説の長篠合戦、酒井隊の鳶ノ巣奇襲が常寒山、船着山を夜中に行軍としたことを思い出した。これらの山と菊水山、鍋蓋山は違うだろうが、少なくとも菊水山、鍋蓋山を夜中に歩くことはかなり危険で、馬や大きな荷物を運ぶことは不可能といっていいだろう。
登山を経験した人なら分かると思うが、登山道は二列になって歩けるところはあまりないだろう。
そう考えるとやはり4千人(信長公記)という大部隊が常寒山、船着山を行軍するというのは現実的と思えない。

http://www.adult-movie-japan.com/battle/tobinosu.html

常寒山、船着山をのぼり調査しないと。


今日は疲れたのでこの辺で・・・


正月休みを利用し、九州へいきました。
前回は新幹線にて向かいましたが、今回はフェリーです。
阪九フェリーを利用です。

この年齢になるまでフェリーに乗ったことがなく楽しみにしていました。

阪神御影よりフェリー乗り場へ向かう専用のバスがあります。

ちなみに阪九フェリーは神戸六甲より九州は門司まで行く便があり、乗船の時間は夜の7時で出航が8時。
平日は時間が変わるようです。


戦国時代の合戦データベース-船上
甲板に上がって外の風景を楽しみましたが、とにかく寒い・・・
季節が冬だから当たり前かも知れませんが、風が強いのです。


戦国時代の合戦データベース-明石大橋ライト1
神戸を出発し1時間ばかりで明石大橋にいたります。ライトアップされており、私だけでなく船客の方たちもデッキに出て、橋を見ていました。


戦国時代の合戦データベース-明石大橋ライト2
明石大橋のライトは時間によって色が変わります。なかなかオシャレじゃありませんか。

もっと沢山写真を撮りたかったのですが、とにかく寒くてカメラを持つ手が悴んでしまい・・・。


ちなみに夜の海は漆黒で不気味です(笑)

戦国時代にも船は重要な輸送手段であったようなのですが、夜に沖合に出るということは自殺行為なのではと、なぜかそんなことを考えてしまいました。

戦国よりはるか昔、遣隋使や遣唐使はかなり大変だったことだろうと思います。今でこそコンピューターで管理して無事に夜中の航行でも目的地にたどり着けますが、当時は経験と感だったでしょうし命がけだったはず。
沈没することも多かったせいか、何艘かで向かったようです。



・・・ つづく(多分・・)