今日の画像は、スイスアルプストレッキンのスナップ『アイガーグレッチャーに向かう登山電車からのスナップ』、北大路欣也主演の『藤沢周平原作・三屋清左衛門残日録』、奥穂高から難関ジャンダルムを超え西穂高にトライする麻莉亜』、パリオリで金メダルの先鞭をつけた『体操男子団体』と『スケボー男子・堀米雄斗』。そして、そして、白が清楚な『ユキヤナギ』。とても花期の短い花ではあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■■その時刻に買い物を言いつけられて外に出たのはおひでの幸運だったが、おひでが殺されなかったために、樋口は犯人を江戸屋敷の者か、近頃国から出府して来ている者にしぼることが出来た。別家の屋敷には、国元から来ている奉公人はいない。

 

樋口は黙々と調べを続け、やがてその夜の刺客が、江戸屋敷の者でも、公用で出府し江戸屋敷に滞留している国元の藩士でもなく、どうやら家老の朝田弓之助が出府する時の定宿としている寺院、下谷の長楽寺という寺に泊まっていた2人の男らしいことを突き止めた。

 

男達の名前は黒田欣之助と村井寅太。国元では朝田派と呼ばれる家老方の派閥に属している男たちであることも判明した。黒田と村井は前年の冬近いころに出府して来て、春まで長楽寺に滞在した。寺には公用で来たと言い、時々2人で羽織、袴に威儀を正して外出したという。

 

しかし樋口の調べによれば、黒田と村井はざっと半年におよぶ江戸滞在の間、一度も藩の江戸屋敷に顔を出していなかった。そして帰国する、とことわって寺を出たのが、石見守が毒殺された日の朝である。その日1日だけは市中に宿をとり、夜分に石見守と会った疑いが濃かった。

 

そこまでの報告を受けると、船越喜四郎は樋口を伴って築地の石見守の屋敷を訪ねた。

黒田と村井は、在府中に時々石見守に会っていたようである。石見守の屋敷でその点をただしてみたが、さすがに用心したらしく、2人はそこには1度も顔を出していなかった。そのかわりに船越と樋口は、石見守と朝田派のつながりを証拠立てる、有力な物証を手に入れた。石見守と朝田弓之助の間に交わされた多数の手紙である。

 

その手紙の文句は、2人の間に何かの密約があったことを強く疑わせるものだった。ただし、密約の中身が何かはわからなかった。手紙類は、船越の求めに跡継ぎの光五郎信正が快く応じて、手文庫をあけてみせたので読むことが出来たのだが、その中にただ一通だが、国元野塩村に住む屈指の豪農多田掃部から来た手紙がまじっていた。多田の手紙には石見守の次男友次郎信成の名前があり、また手紙の内容はやはり、石見守と多田との間にも何かの密約があったことを疑わせるものだった。

 

■■<人手不足、緊張の夏Ⅳ『25年の崖まで半年を切った』>『25年の崖』が変革を迫るのはシステム会社にとどまらない。乗り越えようと試みた江崎グリコは老朽システムを更新した際に障害が発生した。主力の洋生菓子『プッチンプリン』の出荷は3カ月近く止まったままだ。24年12月期の業績下方修正も余儀なくされた。

 

日本企業の多くは自社の業務に合わせて基幹システムに修正を重ねてきた。熟練のエンジニアが十分でない中、そのまま新システムに引き継ぐと開発遅延や不具合のリスクは高まる。

 

国立情報学研究所の佐藤教授は『25年の崖を機に、システムに合わせて業務の方を見直すという割り切りも必要だ』と指摘する。

 

『一緒にやりましょう』。6月、東京・大手町で開かれたIT業界のイベントに、参加者と情報交換するシステム会社のシニア・アドバイザー伊原の姿があった。

 

『いざというときに協力してもらえる信頼関係を築いておく』。企業の変革努力と現場力が合わされば『崖』は越えられる。緊張の夏。25年まで半年を切った。

 

■■<少子化対策『脱伝統的家族主義』必須>少子化が加速している。少子化による労働人口の減少は、日本社会の至る所でゆがみを生み始めた。働き手不足と、事業縮小、果ては廃業と。今のままだと日本社会は60年までに、働く人よりも支える人が多くなると予想される。

 

政府は長年多くの少子化対策を講じてきた。児童手当を含む経済的支援や保育施設増強、異次元の少子化対策・・・。2030年に入るまでの数年間が、少子化傾向反転のラストチャンスだとし、この3年間、集中的に対策を遂行する。

 

男女病度度を順位付けした24年版『男女格差 ジェンダー・ギャップ報告』で日本は146カ国中118位にとどまった。G7で依然最下位であるだけでなく、多くの開発途上国より劣る最低層の常連国になってしまった。日本は教育と健康の分野では中位だが、政治と経済の分野のランキングが極端に低く、総合評価が悪い状態が十数年続いている。企業の管理職や国会議員など意思決定に携わる立場にいる女性が少ないことが主因だ。

 

少子化と男女格差。日本が直面する2つの大きな問題の関連性は、以前から指摘されてきた。ジェンダー・ギャップの順位と合計特殊出生率には正の相関関係がみられ、特に経済面でジェンダー平等が進んでいる国は出生率が高い傾向にある。

 

少子化と男女格差の両方に影響を与える制度や政策、人々の意識、慣行を勘案しつつ、少子化とジェンダー平等の遅れの双方に共通する要因を分析する必要がある。

 

要因の一つは伝統的な『家族主義』から脱却できない社会ではなかろうか。日本の政策は稼ぎ頭の父親と家事育児を担う母親を想定した家庭を前提に立案されることが多い。専業主婦への税制上の優遇がいまだに是正されていないのは、母親の就業はあくまでも家計の補助者としてパート労働にとどめるべきだとする家族主義の表れと考える。

 

女性活躍推進法の導入後、女性の就業率は上昇傾向になり、今では多くの欧米諸国を上回る。半面、男女の賃金格差はほとんど是正されていない。家事、育児の負担を担いながら働く女性にとって意思決定に携わる立場に就くのが困難なことは想像にかたくない。

 

仕事か子供か。実質的に二者択一を迫られる女性が少なくないという現実を、私達は直視する必要がある。OECDが各国の出生動向を分析した報告によると、1975年生まれの女性のうち日本は子供がいない割合が28%と、OECD加盟国の中で最も高かった。

 

さまざまな理由で子供を持たない人が増えているが、伝統的な家族主義の枠組みが残ったまま、少子化と男女格差の現状を打破するのは無理だろう。日本に残された時間は少なく、この枠組みを早急に見直す必要がある。(村上由美子筆)

 

◆私はかねてから、政府・自民党の推進する少子化対策はとても生ぬるいと思っている。手当や補助金、養育施設など制度や施設などへのいわば小手先の対応は色々やっているが、肝心かなめの『子供ファーストへの社会変革』を起こそうという気概を受ける雰囲気はない。子供は社会全体の宝であり、子供がいる家もいない家も、社会全体の子供達を大切に育てようという気風が一向に怒っていないのだ。あの、長野市の市長など、子供が遊ぶ声がうるさいと訴えられたら早速子供の遊び場であった公園を閉鎖してしまった。県庁所在地の首長ですらこの体たらくだ。自民党の議員達があちこちの会合で、子供を産まない女性はけしからん、との発言が多く聞かれる。政治家は日本の少子化対策の本質を見誤まり、逸脱しているのだ。これではとても出生率の回復、向上など夢のまた夢ではあろうな。私はこの村上さんの問題指摘に大賛同する。

 

■■<荒廃した広島県立安西高校を蘇生させた『肝っ玉校長、・山廣康子さん』2011.2.7>私のブログは2006年6月24日『ジーコジャパンからオシムジャパンへ』が第1号で7月31日で第6,072号を迎えた。アクセス数はまあまあこのブログに似合った数字ではあるが、実はアクセスは直近のブログより、過去のブログへの方が多い。30日のアクセスで一番多かったのが2011年2月7日アップの、この『荒廃した広島県立安西高校を蘇生させた「肝っ玉校長、・山廣康子さん」』。記念に、このブログを再掲載する。以下。

 

先日4日にアップしたコラムに、『広島観音高校サッカー部は、なぜ強くなったのか』を追補しました。その中に当時観音高校校長、山廣康子さんが、サッカー部応援のためのチェアガールの指導や、観戦に活発に動かれ、陰からサッカー部を応援した、と。また前任地での活躍をしたためた自著『やればできるんよ』(ダイヤモンド社刊)が紹介されて。早速手にし、読み切りました。全体を通じての印象は、『肝っ玉校長山廣康子先生(教頭)安西高校を蘇生』というところでしょうか。(少し長くなります)

 

『こんなに荒れた学校はないよのぉ』。2001年、教頭として県立広島国泰寺高校から、『県立安西高校』に赴任した山廣康子さんの耳に入ったのはこの言葉です。喫煙や暴力が横行し、教室や学校への出入りは勝手気ままな状態。学校外でも、万引き、恐喝、飲酒などの問題行動が続発している状況。教室では机がきちんと教壇に向かっていない。教室のそこかしこに、プリントやら、靴やら、ジャージやら、カバンやらが散乱して悲惨な状態。教師は、ただ一人で黙々と授業をしているのです。

 

進学校から転任してきた山廣教頭には、なにもかもが『異文化』。『早急になんとかしなくっちゃ』という思いが沸々と。赴任して一番最初にしたことは、雑然としていて、ホコリ高い職員室の掃除。ほかにも、机の配置換え、不要物の処分などを行います。生徒が『職員室みたい』と感嘆するほどに。70段ほどの校門前の階段はいつもゴミだらけ。毎日掃除をすれば良いのだが、生徒はもちろん、教師もさせるつもりがありません。ふと思いついたのが『ゴミの代わりに花を植えてやれ!』と決意。9月の2学期始業の前に完成させ、生徒の反応を待ちました。『わあ、どうしたん』『どしたん、きれいねぇ』『バリすごい』、内心花が引き抜かれたり、プランターがひっくり返されたり、ゴミが投げ込まれるなどを心配していましたが、杞憂でした。

 

◆改革の次なる一手は、教師の意識を変えること。『うちの生徒がダメなのは、入試制度が悪いから。教育委員会が悪いから。文部科学省が悪いから』、と吐き捨てるように言う教師がほとんど。みんな口では、大変だ、大変だと言っていたが、生徒指導も進学指導もしない。まず『遅刻指導』の導入。そして『服装指導』へ。前者は有効に機能しましたが、後者はかなり難しい状態が続きます。

 

そんなある日、広島県警北署から山廣教頭に呼び出しがありました。地域の少年犯罪に関する会議。最後に『安西高校の減少と展望を話して』との指示。現状を一気に説明。そしたら、ある男性が『じゃあ、私たちにできることを、手伝わせてください。安西高校で生徒たちと一緒にトイレ掃除を行いたい』。その男性は『イエローハット』の創業者で、相談役の『鍵山秀三郎さん』の『トイレを磨いて心を磨こう』というボランティアの『広島掃除に学ぶ会の、井辻英輔さん』。山廣さんは、前任地でこの会の協力を得て、効果があった体験をしていました。早速実行にと。しかし山廣さんの心は不安でいっぱいでした。しかし校長はすぐに賛成、一部教員の不満はあったようですが、直進。生徒の家に電話をかけ、保護者とも参加の同意を取り付け、教師たちには、半ば強制的に参加させました。

 

掃除道具の洗い方や片付け方もきちんと決まっていて、掃除は決められた時間内に素早く終わるようになっています。一生懸命掃除をするうち、いつしか雑念が消え、掃除終了後は、心地よい高揚感を覚え、自分が掃除した便器に愛着を持つようになります。自分が掃除した便器は、誰にも汚されたくないという感覚、つまりトイレに対する意識が大きく変わったのです。そして『学ぶ会』からは『こんなにまじめに掃除をする生徒はみたことがない』と絶賛されました。山廣さんは、『たった1回のトイレ掃除で、生徒が変わるなどと期待してはいない。が、変わるきっかけになってくれればいい』と心から願います。結果、学校全体の雰囲気が少しずつ変わり、教室を掃除しようとか、ゴミのポイ捨てをやめようと動きが教師と生徒の間に生まれてきたのです。

 

2年目に入ると、山廣さんは『早退やアルバイトの規制』に乗り出します。野放しだったこれらに、父兄の合意を取り、生徒の自覚を促して。ノーチェックだった早退も、父兄が迎えにくる場合に限り、認めます。アルバイトは、家庭の事情でどうしてもアルバイトを必要とする生徒だけに限定。生徒達の態度が急激に変わっていくことが分かりました。それを見て、『うちの生徒はどうせダメ』『規則を作っても守らない』といった教師側のあきらめムードも、前向きなものに変化していきました。そして山廣さんは、7年間閉鎖中であった『体育祭』の復活にチャレンジします。紆余曲折はありましたが、終わってみれば、生徒も父兄も大喜びで、『教頭先生、毎年やりましょう』の雰囲気に大転換。

 

さらに追い打ちをかけて、悪い方の名誉である『生徒指導重点校』に指定されている安西高校を、『進学指導重点校』に立候補させます。教師達のあきれ顔をよそに『アイディアを出すように』と教師達に要請。候補に落選したものの、山廣さんは『朝の10分間運動』の提唱があった(自分が提唱の中に紛れ込ましていたもの)が、これを実行に移します。否定的な教師も少なからずいました。『うちの生徒が本を読むなんて』。トイレ掃除から1年後の12月16日、『朝の読書』は始まり、期待以上に『シーンと静まりかえった教室を見て歩きながら、一人、ほそくえんだ』と山廣さん。生徒たちからも本を読む楽しさを知ったと感謝の声が。

 

◆安西高校の蘇生が見え始めた2年目を過ごし、3年目に山廣さんは『校長』に昇格します。学校改革の姿勢はさらに強く。合い言葉は『全員でやろう』『やればできる』。

 

山廣さんは、教師時代『教師というのは、最終的に授業が勝負だ。いくら生徒たちのことを思っていても、つまらない授業をしたら終わり。どうしたら生徒を惹きつけられるか。そのための教材研究に、エネルギーと時間を費やしてきた。教師を否定するには、生徒の「わからん」の一言、あればいいというのが、私の座右の銘』と山廣さん。

 

だから言い訳をしようとする教師には腹がたちます。『文句があるなら、やることをやってから言いなさい』と厳しく対処します。そして人事異動とともに転任してきた意欲的な教師の存在が、安西高校の教師達の間に一石を投じ、職場が活性化してきます。『教師たちが変わり始めた』が実感できるように。

 

2004年3月、安西高校は山廣さんが赴任してきた当時の1年生が卒業を迎えました。当時、3年前の休退学者年間169人だったものが、79人まで減っていました。『すべての人には絶えざる失敗、悩み、不安に遭遇します。それを乗り越えるのが志です』。卒業生124人に送った山廣校長の送辞でした。そして卒業生を代表して答辞を読んだのは、1年生、3年前に同級生から集団リンチを受け、失意のどん底にあった田中君でした。

 

<証言『信念と至誠のたまもの』  イエローハット創業者 鍵山秀三郎>

精密機器を分解して、それを組み立て直すには相当の努力が必要だ。この形状が見えて、手でさわることができるものでさえ大変なことだ。ましてや、人の心のように目で見ることができず、手で触れることができないものがバラバラに崩壊した時に、正常な形にもどることは不可能に近い至難なこと。この難しい課題に正面から取り組み、見事に解決をされたのが、山廣康子先生だ。人の心の荒廃を正すことは、たとえそれがただ一人であっても難しいことは周知のことだ。それが、500人にわたる生徒の荒廃と、それを煽る外部の助長勢力に立ち向かうには、高い志と毅然たる取り組みを持って臨まなければならない。山廣康子先生が揺るぎない信念、後には引かないという決意をもって取り組まれた安西高校の正常化は、この学校を知る人の間に『奇跡の事象』として受け止められた。奇跡でも偶然でもなく、すべては山廣先生の信念と至誠の努力によるものであることを、証言する。

  参考:『やればできるんよ』山廣康子著、ダイヤモンド社刊

 

この本を読んで、山廣先生の取り組まれた時期と同じ頃、太田川を東に渡った、広島市の高陽東高校でも荒れた学校の建て直しが始められていたようです。というのは、私の知り合いが、当時話題となった『民間校長』で採用され、高陽東高校の校長に就任されたことで、私が同校を訪ねてその経緯が分かりました。校門をくぐって、玄関に向かう途中、何組かの生徒に出会いました。驚いたのは、全員がこちらより先に『こんにちは』と挨拶を述べ、頭を下げるのです。一番びっくりしたのは、女子高校生5人づれが、全員が一緒に挨拶と頭を下げた光景でした。今まで相当の学校の門をくぐった経験はありますが、このような光景に出くわしたことはありません。

 

◆校長室で開口一番、このことを知人の校長先生に話すと、『この学校も前は大変だったのだ。荒れて荒れて、極端に言えば廊下をバイクが走るようなことも』と、驚きましたねえ。そしてどうやって解決したのか聞くと『先生達がやるべきことをきちっとやってくれたおかげ』だと。安西高校のケースとは少し違いますが、この言葉には私も心から感心しました。学校に限らず、企業でも『やるべきことをきちっとやる』ことが求められるからです。そうでない企業は市場から姿を消すしかないのですね。心すべきことでしょう。(#.*)